今更どうしたの?へんなもの食った?と訊かれてしまうようなタイトルですが、昔子どもと話していたことを思いだした次第。
さて普通の1車線ぐらいのさほど広くない通りに横断歩道があって車線の方には停止線が引かれているとする。信号機はないとしよう。ここでは自動車は歩行者が横断歩道を渡りそうだったら停止線で止まって歩行者を渡らせなくてはいけないのだが、通常は歩行者は幼稚園時代から教わっているように「手を挙げて左右をよく見てクルマが止まったのを確認してから渡りましょう」ということになる。ただしこれは義務ではなく、クルマの側に歩行者優先の義務が生じているとのことなので不要と云えば不要である。
だが、仮にドライバーの方に何らかの落ち度が生じて歩行者を轢いてしまったとしよう。文字通り「横断歩道で手を挙げて○○でいた」などとネタにするにも不謹慎なことになったとすると大変なことだ。歩行者がながらスマホしてようが、おしゃべりしていて左右の確認を怠っていようと、クルマ側の責任が問われるらしい。
(申し訳ないが私は自動車免許を持っていないので道路交通法を知らない。あくまでも聞きかじりである。ご容赦)
なるほど、確かにクルマが悪い、ドライバーが悪い、となってドライバーはおそらく一生を台無しにするような事態になるだろうし、被害者、加害者ともにその家族、関係者を巻き込んで大騒ぎである。
で、どこまで調査してもおそらく被害者と加害者の立場は変わることなく、法的にはドライバー加害者であり続ける。まあ状況によっては刑事裁判上の量刑に関してなんらかの影響を与えるかも知れない。
ふ~ん、だから何?いやいや忘れては困ります。結局一番辛い思いしたのは誰?と考えるとこの場合は被害者である歩行者である。軽傷ならまだしも取り返しの付かない怪我だったり、いや命を落としてしまえば辛いどころの騒ぎではない。こうなって誰が悪いと糾弾してもその人にとっては意味がないと思うのだが。
誰が悪い、責任は誰にある、というのは起きてしまった状況に対して誰に償わせるか、取り返しが付かないならどういう形で報復するか、という話であって、どこまでいっても当事者が辛いのは変わらない。
であれば、そもそも横断歩道を渡る際に幼稚園時代に教わったことを思いだしておけば、事故を回避できた可能性が高い、それならみんなハッピーだったかも知れないということだ。
子どもに話したのは「いくら相手に落ち度があったって辛いのは自分だから普段から気をつけなさい」ということだ。
偶発的な事故はある一定の確率で起きる、不心得者はある一定数いるという前提に立てば、事故が起きる可能性を少しでも排除しながら身の回りに潜んでいるリスクを避ける行動を常に意識していないといけないと思う。これは加害者や事故を正当化するのとは意味が違う。リスクが想像できないなら何を教わってきたのか、ということである。
ここまで読んでいただければ賢明な諸兄は何の話をしているのかお気づきになっているかも知れない。