前にも話題にしたから、まずはこれ。
90歳女性車を運転して死亡事故
場所が茅ヶ崎と田舎とは云いがたい地域で 90歳の女性がまだ運転しているという事実も驚きである。数ヶ月前の検査では判断力や記憶力に異常は見つからなかったとのことだから、本人も自信があって運転していたんだろう。が、実際には物損事故を何度か起こしていたようだから、昔のようにはいかないという兆候はあったらしい。
さて、この年になって事故では民事、刑事共に責任が負えないではないか。高齢者といえども当然のことながら人権はあり、相当の理由がない限り免許を一方的に取り上げることはできない。だが権利には責任もあるはずだ。もはや責任が負えない年齢に達してるのであれば、権利もある程度制限されるのもやむ得ないと考えるのが妥当ではないかと思う。ただ、それでは本当に生活が不便になって人権問題になるのであれば、それに対する解決策を考えなくてはいけない。上述の記事はその一案だが、もっといい解決策がどんどん出て具体化して欲しいと思う。
で、その他のトピックについても前回の続きを書こうかと思ったが、まず考えを整理したい。
何か不祥事的な話題があると、責任の所在は、とか処分が妥当かとか色々な意見が飛び出すのだが、国会での議員の発言やマスコミなどの論調を見ると何か観点をごちゃごちゃにして混乱を招いていると云う気がしてならない。また時々街角でのインタビューなどでの反応もそれらに引きずられている感がなくもない。
不祥事に関して見なくてはいけない領域として、こんなのがあるだろう。まだ抜けはあるとは思うが。
・倫理 / 社会的責任の領域
・民事的責任の領域
・刑事的責任の領域
で、アメフトの件に関しては、橋下徹さんがこんな記事を書いている。(引用:橋下徹通信)
橋下徹「日大広報が炎上した本当の理由」:アメフト部の問題から全学の危機へ
この記事とその前の記事では、初動対応のあり方について指摘しているが、例に挙げて申し訳ないがこちらも重要だと私は思っている。
内田前監督・井上前コーチの社会的責任と刑事責任を混同するな
今は、内田前監督や井上前コーチが、ラフ・プレーを直接言葉で指示したのかどうかに焦点が当たっている。
しかし内田氏や井上氏の社会的責任を論じるにあたっては、ラフ・プレーを直接指示する言葉があるかどうかはどうでもいい。ラフ・プレーを直接指示する言葉がなくても、加害学生が追い込まれていた状況や、この学生が普段はラフ・プレーはしていないのに、今回に限ってあれだけのラフ・プレーをしてしまったこと、さらに試合直後にこのラフ・プレーを容認していた内田氏の発言(後に撤回されるが、撤回の方が信用性なし)などを合わせて考えると、今回のラフ・プレーは内田氏や井上氏の指示に基づくものだったと考えざるを得ない。
ここでは橋下さんは、刑事的責任については事実と法に基づいて判断されるべきと考えているし、それは被告人の当然の権利といっている。一方社会的責任は別としている。また負傷した学生からすると民事賠償もあり得るので民事的責任もまた別だと私は思う。
なんか報道やコメントなどを見ていると、それらをごっちゃにした見解、意見が目について仕方ない。社会的責任については一般常識と慣例がベースになるので第三者、一般人が色々意見をいうのは良いだろうが、民事は当事者同士の話だし刑事は法の支配に基づく。
で、前回取り上げたトピックでも、
政局関連:
佐川氏を始め一連の文書改ざん関係者について、検察は不起訴としたようだ。法律のプロが刑事上の問題を問うには当たらない、と判断したのだから、素人がとやかく言えることではない。審査会では起訴するように上告するようだから、それはやっても構わないが、やったからって検察の判断が「庶民感覚からずれている」という決めつけにはならないだろう。そもそも「庶民感覚」で刑事事件を扱ってはいけないのだ。そうなると「裁判員制度」はどうよ、ということになるのだが、実際裁判員の判断は上級審で覆ることが多いようなので、プロと素人は違うとしか言いようがない。
さて、社会的責任についてはどうかというと決裁文書の改ざんなので相応の処分が下るようだ。で、トップの責任はというと麻生財務大臣はそういった不祥事をただす側にある。これを知っていて見過ごし、暗黙の承認をしたなら別だがそうではないなら直接的な責任はない。とはいっても結果が国家に大損害を与えたなら、責任はとることになる。今回の検察の判断は刑事上問題なく、民事的にも国家に大損害を与えたわけではないので、やはりただす側でよいと私は思う。
付け加えると安倍総理の側では夫人の名誉校長であったことが問題を大きくしたという反省があるようだ。ならば、なぜ現職大臣およびその家族(何親等以内)の特定団体への役職就任は禁じる、あるいはすでに就いている場合は一旦退くという法案もしくは慣例を作るようにしないのか。といっても私自身はこの考えには懐疑的である。
セクハラ関連:
現行の法律の範囲では、セクハラ自体に刑事罰はない。よって社会的責任と民事的責任しか問えない。これが不備というなら法案を出すべきである。で、社会的責任を問うのであれば明確に問題があったことを公に認定しなくてはいけない。でないとデマで被疑者の人生を終わりにしてしまうからである。少なくとも前副次官に社会的責任を取らせるのであれば被害者が匿名であってもある程度ははっきりさせる必要があるだろう。それなしに回りが騒ぎ立てるのは少しおかしい。当事者同士の問題なら民事なので当事者同士で決着を着ければ良い。
まして上司の責任を問うのであれば、それ相応に事実関係をはっきりさせて認定しなくてはいけない。これは TOKIO も同じ話で、民事案件にもかかわらず、しかも当事者同士の示談も済んでいるのに関係者と称して勝手なことを云うのもいかがなものか。法が不備ならそういう方向に持って行かなくてはいけない。
アメフト:
再びアメフト問題だが、タックルをした学生は会見のタイミングと内容が良かったせいか、比較的責任の問われ方が世間的には軽いようだ。タックルされた学生側への謝罪は済んでいる。行為自体の原因は監督とコーチにあるとされている。だが、本当にそれでいいのだろうか。刑事事件案件にはなっているのだとすれば、傷害を受けた側が告訴を取り下げようが成立しているような気がするが。刑事案件の告訴先は学生ではなく、監督やコーチに向けられるということは可能なのだろうか。
如何に示談が済んでいようと、無防備な選手に向かってタックルをしたという事実は変えられないし、どこまでいっても当事者からは逃れられないと思うがどうだろう。本件、流れとしては福知山脱線事故に似ているような気がする。あの悲劇は会社側の管理と指導にある、となっているが本当のところは運転手としての資質の問題だろう。本人が事故と共に亡くなってしまったのでそれ以上は追求されていないが、たびたびの運行ミスがあったと云われており、スキル的に不向きだったのではないかと想像する。会社側はそれを見抜けなかったか、放置したという指摘があっても良いはずだが、それはなかったと思う。さてどこが似ているかというと上からの過度のプレッシャーで当事者の神経が麻痺していたのではないかという点である。福知山線の運転手だって、カーブにさしかかるまでに速度、加速度を体感していればまずいと思うはずだが、定時運行のプレッシャに負けて正常な判断ができなくなっていたと思われるし、今回の選手もいくら「つぶせ」と云われていたって無防備な選手に向かって怪我をさせる目的でタックルなどはできないはずだが、それを敢行している。「来るなら来てみろ」とか「かかってこい!」と挑発されれば闘争心が湧き上がるのも分かなくもないが(自分は速攻で逃げます)、そうでないなら「やれ!」「はい」とはならないと思う。そうするとやはり正常な心理状態ではなかったということだろう。記者会見の時は憑きものが落ちたかの如く淡々と自分のやったことについて振り返っていたが、おそらく福知山線の運転手ももしあれほどの大惨事にならず、本人も生きていれば「なぜあんなことをしたのだろう」という振り返りをしたのではないかと思う。
アメフトタックルの件は、元監督や大学の指導と権力などについてフォーカスが当てられ、そういった側面での処分が行われるようだが、少し違うのではないかと思う。私は学生を責めるつもりはなく、無防備な選手にタックルをするのをどうしたら防止出来るかをきちっと議論するには、一旦は選手も俎上にのってもらわないといけないのではないかと思う。闘争心を煽るのがいけないのではなくて、どこかでブレーキを掛けるにはどうしたらよいかが重要だと思うがどうだろうか。具体的にはルールを守って安全にプレイするにはどうするかという啓蒙教育や、審判も含めて多くの人が反則行為に対してチェックしている、ということを選手にたたき込む必要があると思う。体育会系指導がどうとか、元監督のキャラがどうとかを叩いてもは問題の解決にはつながらないだろう。
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90歳女性車を運転して死亡事故
ちょっと前にこんな記事を書いたのだが困ったもんです。
ドライバー付きカーシェアリングって、あるの?場所が茅ヶ崎と田舎とは云いがたい地域で 90歳の女性がまだ運転しているという事実も驚きである。数ヶ月前の検査では判断力や記憶力に異常は見つからなかったとのことだから、本人も自信があって運転していたんだろう。が、実際には物損事故を何度か起こしていたようだから、昔のようにはいかないという兆候はあったらしい。
さて、この年になって事故では民事、刑事共に責任が負えないではないか。高齢者といえども当然のことながら人権はあり、相当の理由がない限り免許を一方的に取り上げることはできない。だが権利には責任もあるはずだ。もはや責任が負えない年齢に達してるのであれば、権利もある程度制限されるのもやむ得ないと考えるのが妥当ではないかと思う。ただ、それでは本当に生活が不便になって人権問題になるのであれば、それに対する解決策を考えなくてはいけない。上述の記事はその一案だが、もっといい解決策がどんどん出て具体化して欲しいと思う。
で、その他のトピックについても前回の続きを書こうかと思ったが、まず考えを整理したい。
何か不祥事的な話題があると、責任の所在は、とか処分が妥当かとか色々な意見が飛び出すのだが、国会での議員の発言やマスコミなどの論調を見ると何か観点をごちゃごちゃにして混乱を招いていると云う気がしてならない。また時々街角でのインタビューなどでの反応もそれらに引きずられている感がなくもない。
不祥事に関して見なくてはいけない領域として、こんなのがあるだろう。まだ抜けはあるとは思うが。
・倫理 / 社会的責任の領域
・民事的責任の領域
・刑事的責任の領域
で、アメフトの件に関しては、橋下徹さんがこんな記事を書いている。(引用:橋下徹通信)
橋下徹「日大広報が炎上した本当の理由」:アメフト部の問題から全学の危機へ
この記事とその前の記事では、初動対応のあり方について指摘しているが、例に挙げて申し訳ないがこちらも重要だと私は思っている。
内田前監督・井上前コーチの社会的責任と刑事責任を混同するな
今は、内田前監督や井上前コーチが、ラフ・プレーを直接言葉で指示したのかどうかに焦点が当たっている。
しかし内田氏や井上氏の社会的責任を論じるにあたっては、ラフ・プレーを直接指示する言葉があるかどうかはどうでもいい。ラフ・プレーを直接指示する言葉がなくても、加害学生が追い込まれていた状況や、この学生が普段はラフ・プレーはしていないのに、今回に限ってあれだけのラフ・プレーをしてしまったこと、さらに試合直後にこのラフ・プレーを容認していた内田氏の発言(後に撤回されるが、撤回の方が信用性なし)などを合わせて考えると、今回のラフ・プレーは内田氏や井上氏の指示に基づくものだったと考えざるを得ない。
ここでは橋下さんは、刑事的責任については事実と法に基づいて判断されるべきと考えているし、それは被告人の当然の権利といっている。一方社会的責任は別としている。また負傷した学生からすると民事賠償もあり得るので民事的責任もまた別だと私は思う。
なんか報道やコメントなどを見ていると、それらをごっちゃにした見解、意見が目について仕方ない。社会的責任については一般常識と慣例がベースになるので第三者、一般人が色々意見をいうのは良いだろうが、民事は当事者同士の話だし刑事は法の支配に基づく。
で、前回取り上げたトピックでも、
政局関連:
佐川氏を始め一連の文書改ざん関係者について、検察は不起訴としたようだ。法律のプロが刑事上の問題を問うには当たらない、と判断したのだから、素人がとやかく言えることではない。審査会では起訴するように上告するようだから、それはやっても構わないが、やったからって検察の判断が「庶民感覚からずれている」という決めつけにはならないだろう。そもそも「庶民感覚」で刑事事件を扱ってはいけないのだ。そうなると「裁判員制度」はどうよ、ということになるのだが、実際裁判員の判断は上級審で覆ることが多いようなので、プロと素人は違うとしか言いようがない。
さて、社会的責任についてはどうかというと決裁文書の改ざんなので相応の処分が下るようだ。で、トップの責任はというと麻生財務大臣はそういった不祥事をただす側にある。これを知っていて見過ごし、暗黙の承認をしたなら別だがそうではないなら直接的な責任はない。とはいっても結果が国家に大損害を与えたなら、責任はとることになる。今回の検察の判断は刑事上問題なく、民事的にも国家に大損害を与えたわけではないので、やはりただす側でよいと私は思う。
付け加えると安倍総理の側では夫人の名誉校長であったことが問題を大きくしたという反省があるようだ。ならば、なぜ現職大臣およびその家族(何親等以内)の特定団体への役職就任は禁じる、あるいはすでに就いている場合は一旦退くという法案もしくは慣例を作るようにしないのか。といっても私自身はこの考えには懐疑的である。
セクハラ関連:
現行の法律の範囲では、セクハラ自体に刑事罰はない。よって社会的責任と民事的責任しか問えない。これが不備というなら法案を出すべきである。で、社会的責任を問うのであれば明確に問題があったことを公に認定しなくてはいけない。でないとデマで被疑者の人生を終わりにしてしまうからである。少なくとも前副次官に社会的責任を取らせるのであれば被害者が匿名であってもある程度ははっきりさせる必要があるだろう。それなしに回りが騒ぎ立てるのは少しおかしい。当事者同士の問題なら民事なので当事者同士で決着を着ければ良い。
まして上司の責任を問うのであれば、それ相応に事実関係をはっきりさせて認定しなくてはいけない。これは TOKIO も同じ話で、民事案件にもかかわらず、しかも当事者同士の示談も済んでいるのに関係者と称して勝手なことを云うのもいかがなものか。法が不備ならそういう方向に持って行かなくてはいけない。
アメフト:
再びアメフト問題だが、タックルをした学生は会見のタイミングと内容が良かったせいか、比較的責任の問われ方が世間的には軽いようだ。タックルされた学生側への謝罪は済んでいる。行為自体の原因は監督とコーチにあるとされている。だが、本当にそれでいいのだろうか。刑事事件案件にはなっているのだとすれば、傷害を受けた側が告訴を取り下げようが成立しているような気がするが。刑事案件の告訴先は学生ではなく、監督やコーチに向けられるということは可能なのだろうか。
如何に示談が済んでいようと、無防備な選手に向かってタックルをしたという事実は変えられないし、どこまでいっても当事者からは逃れられないと思うがどうだろう。本件、流れとしては福知山脱線事故に似ているような気がする。あの悲劇は会社側の管理と指導にある、となっているが本当のところは運転手としての資質の問題だろう。本人が事故と共に亡くなってしまったのでそれ以上は追求されていないが、たびたびの運行ミスがあったと云われており、スキル的に不向きだったのではないかと想像する。会社側はそれを見抜けなかったか、放置したという指摘があっても良いはずだが、それはなかったと思う。さてどこが似ているかというと上からの過度のプレッシャーで当事者の神経が麻痺していたのではないかという点である。福知山線の運転手だって、カーブにさしかかるまでに速度、加速度を体感していればまずいと思うはずだが、定時運行のプレッシャに負けて正常な判断ができなくなっていたと思われるし、今回の選手もいくら「つぶせ」と云われていたって無防備な選手に向かって怪我をさせる目的でタックルなどはできないはずだが、それを敢行している。「来るなら来てみろ」とか「かかってこい!」と挑発されれば闘争心が湧き上がるのも分かなくもないが(自分は速攻で逃げます)、そうでないなら「やれ!」「はい」とはならないと思う。そうするとやはり正常な心理状態ではなかったということだろう。記者会見の時は憑きものが落ちたかの如く淡々と自分のやったことについて振り返っていたが、おそらく福知山線の運転手ももしあれほどの大惨事にならず、本人も生きていれば「なぜあんなことをしたのだろう」という振り返りをしたのではないかと思う。
アメフトタックルの件は、元監督や大学の指導と権力などについてフォーカスが当てられ、そういった側面での処分が行われるようだが、少し違うのではないかと思う。私は学生を責めるつもりはなく、無防備な選手にタックルをするのをどうしたら防止出来るかをきちっと議論するには、一旦は選手も俎上にのってもらわないといけないのではないかと思う。闘争心を煽るのがいけないのではなくて、どこかでブレーキを掛けるにはどうしたらよいかが重要だと思うがどうだろうか。具体的にはルールを守って安全にプレイするにはどうするかという啓蒙教育や、審判も含めて多くの人が反則行為に対してチェックしている、ということを選手にたたき込む必要があると思う。体育会系指導がどうとか、元監督のキャラがどうとかを叩いてもは問題の解決にはつながらないだろう。

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