こんな記事を見つけた。
「設計書」が書けない設計者
書いている方は建築系の技術士で設計事務所を持ってコンサルティングなどを行っているようだ。この記事自体はシリーズの第 23 回目なので、いくつか読んでみた。
結構耳に痛い話が書いてある。この記事内にも「設計者のアウトプットは設計書と図面」と断じてあって、概ね私が前に書いた記事と同じような主旨である。
「STAP 細胞騒動」についての一考>研究者の仕事とは?
ただ自分の仕事を振り返ってみて「設計書」を書いたかというと結構微妙である。「設計仕様書」と同義と考えて良いとは思うが、設計行為に入る前にそこまで詳細のものを作ったかというと自信がない。
ここの記事にはこんなことが書いてあった。
「既存の専門書Aと専門書B、専門書Cに、なんと「設計書」の記載がなかったのです。これには驚きました。そこで、当事務所で学校教育を調査すると、建築系学科のカリキュラムには設計書が存在していますが、機械や電気・電子系、その他の学科には設計書がありませんでした。」
私は電気・電子系だが確かに大学でも職場でも「設計書」作成に関して、たたき込まれた経験はない。もちろん部品発注の際に「購入仕様書」や工程に流す際の「作業指示書」は誰でも書いているし、自分も数多く書いている。が、「設計書」=「設計仕様書」は書いても中身は「TBD(= To Be Determined)」か「Tentative」だらけだったりする。走りながら決めるような内容が多かったからだ。しかしたとえ「TBD」だらけであっても書くことは命じられていたし、決まるそばから埋めて入った。今の人たちもそうやっていると思う。
少なくともここで指摘されているような「手抜きの設計フロー」のようなことはない。「設計審査」も「TBD」だらけであって「これをどうやって埋めるのか」は説明させられた。これだと「技術説明会」に過ぎないという指摘ならそうだと思う。
確かに「決めること」が設計の仕事なので、「決め切れていない」のにどうして「設計」になるのか「設計審査」が出来るのか、という指摘はごもっともだ。
この辺りの言い分の乖離はどこから生じてくるのか。おそらく建築系だと「設計書」が一点の曇りもあってはならぬ、という文化と責任範囲の設定にあるのだと思う。作りながら開発していくということがないのだろう。建物を作りながら実験されてはかなわない。
電気製品は市場の要求に従って何かの付加価値を付けるべく開発し、設計する。開発と設計が同時進行だったりする。よって「できるかできないか分からない」「試作を繰り返しながら解を探す」というのも含めて設計だったりする。
という言い訳をしているようではやっぱりいけないだろう。技術の仕事の本質が「設計書の作成」にあるという指摘がうなずけるのであれば、満額回答はできなくても、どこまで近づけられるのか、及ばないところはどこか、なぜ及ばないのかなどを分析して行動基準に当てはめていかなくてはいけない。
「設計書」が書けない設計者
書いている方は建築系の技術士で設計事務所を持ってコンサルティングなどを行っているようだ。この記事自体はシリーズの第 23 回目なので、いくつか読んでみた。
結構耳に痛い話が書いてある。この記事内にも「設計者のアウトプットは設計書と図面」と断じてあって、概ね私が前に書いた記事と同じような主旨である。
「STAP 細胞騒動」についての一考>研究者の仕事とは?
ただ自分の仕事を振り返ってみて「設計書」を書いたかというと結構微妙である。「設計仕様書」と同義と考えて良いとは思うが、設計行為に入る前にそこまで詳細のものを作ったかというと自信がない。
ここの記事にはこんなことが書いてあった。
「既存の専門書Aと専門書B、専門書Cに、なんと「設計書」の記載がなかったのです。これには驚きました。そこで、当事務所で学校教育を調査すると、建築系学科のカリキュラムには設計書が存在していますが、機械や電気・電子系、その他の学科には設計書がありませんでした。」
私は電気・電子系だが確かに大学でも職場でも「設計書」作成に関して、たたき込まれた経験はない。もちろん部品発注の際に「購入仕様書」や工程に流す際の「作業指示書」は誰でも書いているし、自分も数多く書いている。が、「設計書」=「設計仕様書」は書いても中身は「TBD(= To Be Determined)」か「Tentative」だらけだったりする。走りながら決めるような内容が多かったからだ。しかしたとえ「TBD」だらけであっても書くことは命じられていたし、決まるそばから埋めて入った。今の人たちもそうやっていると思う。
少なくともここで指摘されているような「手抜きの設計フロー」のようなことはない。「設計審査」も「TBD」だらけであって「これをどうやって埋めるのか」は説明させられた。これだと「技術説明会」に過ぎないという指摘ならそうだと思う。
確かに「決めること」が設計の仕事なので、「決め切れていない」のにどうして「設計」になるのか「設計審査」が出来るのか、という指摘はごもっともだ。
この辺りの言い分の乖離はどこから生じてくるのか。おそらく建築系だと「設計書」が一点の曇りもあってはならぬ、という文化と責任範囲の設定にあるのだと思う。作りながら開発していくということがないのだろう。建物を作りながら実験されてはかなわない。
電気製品は市場の要求に従って何かの付加価値を付けるべく開発し、設計する。開発と設計が同時進行だったりする。よって「できるかできないか分からない」「試作を繰り返しながら解を探す」というのも含めて設計だったりする。
という言い訳をしているようではやっぱりいけないだろう。技術の仕事の本質が「設計書の作成」にあるという指摘がうなずけるのであれば、満額回答はできなくても、どこまで近づけられるのか、及ばないところはどこか、なぜ及ばないのかなどを分析して行動基準に当てはめていかなくてはいけない。
自分への戒めというには手遅れだが、後進達には同じ轍を踏まぬようにお願いしたい。