1966年(昭和41年)10月21日、

「日本労働組合総評議会(総評)」が、約211万人に

及ぶ参加者を得て「ベトナム反戦統一ストライキ」を

決行し、同時に、全世界の「反戦団体」に、

「ベトナム戦争反対」を呼びかけたことに

由来しています。

 

この運動、働きかけは世界へも大きな影響を

与えました。

翌年の10月21日には、アメリカのワシントンD・Cで

10万人を超すベトナム反戦デモとなった

「ペンタゴン大行進」につながりましたし、

欧米での多くの反対運動やイベントの強い誘因に

なりました。

 

ちょっと余談ですが、「ベトナム」という国、地域

ですが、18世紀中旬までは「中国の清王朝」の

属領でしたが、フランスの植民地になり、独仏戦争の

後は、ドイツ領となり、第二次大戦時は大日本帝国の

属領となっていましたが、大戦後は、南北に二分され、

東西冷戦のつばぜり合いの地域となっていたものです。

 

「ベトナム戦争」ですが、大戦後の建国以来、

南北ベトナムの間での「小競り合い」は続いていましたが、

1964年8月の「トンキン湾事件」を機に「アメリカ」が

参戦し、本格的な戦争状態に突入してしまいました。

 

南ベトナム側には、アメリカ、韓国等西側諸国が

軍隊を派遣し、参戦していましたし、北ベトナム側へは

中国を代表とする東側諸国の応援が入るものでした。

 

この戦争の内容は、民間人も正規の軍人も見境も

定かでない「ゲリラ戦」が展開され、集落ごとに

焼き払う「空爆」や、戦争終結後も人体を蝕み、

大きな問題を残してしまう「枯葉剤など化学兵器」も

投入されました。

 

最終的には、1975年(昭和50年)4月30日の、

南ベトナムの首都「サイゴンの陥落」で終わり、

「ベトナムは一つにまとまり、東側の共産国」と

なりました。

 

思い返してみますと、西側諸国の間では、

おひざ元の当事国「アメリカ」での「厭戦活動」は

活発で、フォークソングの主役的地位を占めたり、

ヒッピー族という一種の生活スタイルも

現出しましたし、その一員である日本でも

若者を中心に「反戦、平和」の声は高らかに

唱えられたように記憶しています。

 

現在では「労働運動」そのものも、随分、大人しく

下火になり、鎮静化していますし、

「総評」など「労働組合組織」の在り方にも、

多くの問題が指摘されていますが、

 

当時と現在との「反戦、平和の希求」に対する

「熱気の差」を思いますと、

当時は、まだまだ「直接、戦争の当事者を経験した人、

その当事者に育てられた人」が、

社会の中心を為していたのに比べ、

 

現在は「当事者のほとんどはその生涯を終え、

当事者に育てられた人は老境に入り、

戦争社会を身近に実感できる人が皆無に向かっている」

ように思います。

 

人が生きていく上で「気持ちの切り替え」は

極めて大切だと思います。

しかし、悲しいかな、人間の宿命かも知れませんが、

「地震、津波、台風、大火事、原爆、そして戦争」など、

「罪なき大衆が瞬時に命の危険に曝された記録」は

多々ありますが、

 

ほとんどは「ものの3か月」、「長いもので3年」、

余程の記念碑を建てるほどのものでも

「3代」で実感からは遠ざかってしまうように

思います。

 

「ベトナム戦争」は、私が学生時代を過ごしたころの

出来事です。

当時、学生アルバイトで「アメリカ軍の駐屯地」では

「戦死者を洗う」アルバイトが有り、なかなか「高給」

だというような話を耳にしたことも有ります。

 

昨今の風潮を見ていますと、

まだまだ何回も繰り返してしまうのではと

いう気がしてきます。

 

「般若心経」を唱え、祈りたい気持ちに

誘われるところです。

我家の“リオ君”は

「平和主義者、人間大好き人間」です。

 

スズメバチやナメクジ、アリさんは

怖がりますが、

 

生まれてきて、

「誰々は嫌い」という言葉を

聞いたことが有りません。

 

確かに、

好感を持った表情の相手には

悪い気のする人も

居ないように思います。

 

保育園の先生やお友達、

掛かりつけのクリニックの

先生や看護士さん、

ご近所、通りかかりの

お姉さん、おじさん、おばさん、

警察署のおまわりさん、

消防署のおじさん達、

 

いつの間にか

“リオ君”を見かけると

ニコニコ声を掛けてもらえます。

 

朝一番の寝起きから

ご機嫌な“リオ君”です。

 

いっぱい楽しみが

広がりそうで、

嬉しい気持ちにさせて

もらえます。

 

「いつもいつもありがとう」の

“リオ君”です。

「喪中ハガキ」の印刷、ご用命が

頻繁になって来ました。

 

今年の葬儀も、ごくごく内輪での

「家族葬」が多数を占めたようです。

 

また、亡くなられた方の年齢も

年々「高齢化」しているように

思います。

 

既に、承った「喪中ハガキ」の中でも

百歳を超す年齢でのケースが

2例有りました。

どちらも「女性」でしたが、

百歳超えも珍しく無くなる時代が

近づいているようにも思います。

 

勿論、喪中ハガキの制作には、

年齢に関わりなく、

心を込めて、

あたりたいと思います。

 

本日もよろしく

お願い致します。

 

アンクリエイト