1903年(明治36年)9月20日、京都の

堀川中立売~七条~祇園の間で、

正式な営業免許を受け、日本で初めて

「乗合自動車」が運行されました。

 

運行した会社は「二井商会」で、使用した

車は「蒸気自動車を改良したもの」で、

「運転手、助手、乗客定員4人」という

ものでした。

残念ながら、翌明治37年には経営破綻し、

廃業となっています。

 

私の育った西三河地方でも、我々庶民の

足として「国鉄バス」、「名鉄バス」の

存在は絶大なるものが有りました。

 

当時「タクシーやハイヤー」は、よほどの

理由が無ければ利用する足では有りません。

「通勤、通学」の主役はもっぱら「自転車か

バス」でした。

 

当時の西三河の中心的な市街地は「岡崎市」

でしたが、「国鉄バス」は「国鉄岡崎駅」を

起点に、挙母から瀬戸市方面、安城市、刈谷市

方面へと路線が敷かれていました。

 

これに対し「名鉄バス」は、「名鉄東岡崎駅」を

起点に岡崎市内のほぼ全域に蜘蛛の巣城に

細かく路線を敷いていたように記憶しています。

 

これに「路面電車」も加わり、この地方の

大方の高校生はそれらのどれかのお世話に

なっていたように思います。

 

小学生か、中学生の頃、「瀬戸の陶器祭り」に

行こうと数人の同級生と「瀬戸市」行きの

「国鉄バス」に乗ったことが有ります。

 

岡崎「康生町」で待ち合わせ、伊賀町、大樹寺、

から岩津を経て、矢作川の「天神橋」を渡り、

下渡刈、藤籔から「挙母」へ入ります。

 

「挙母の昭和町」を出て、梅坪を抜けると、

広々とした風景が開けます。

四郷から保見を過ぎ、川沿いに行くと丘陵地

に入ります。

開け放った窓に木の枝がかすめるような

かなり狭くて急峻な道を進みます。

 

運転手さんの横顔からは

「ここがハンドルさばきの見せ所」とも

思わせられる自身の表情が伝わって来た

ものです。

 

そこを過ぎると、瀬戸市の市街地に入ります。

 

仲間だけでの初めての「瀬戸まつり」で、

その賑やかさや「食堂」を数軒はしごして

楽しみました。

 

岡崎の康生町を出て、一時間以上の時間が

掛かっていたと思います。

帰り道では、いつの間にか寝入ってしまい、

「康生町」の手前で、誰かに起こされて、

バスを降りたと記憶しています。

 

「バス」についても、貴重で懐かしい思い出が

数え切れません。

“バスの日”万歳です。

我家の“リオ君”ですが、

「電車」と「地下鉄」とは

違う乗り物だと認識している

ようです。

 

「地下鉄も電車で、

リオ君やお家が建っている土の中に

トンネルを掘って走っているんだよ」

 

と言っても、

“リオ君”の中では

違うようです。

 

今はその理由は判りませんが、

どこか違う所が有るようです。

 

いろいろ教えて欲しい

“リオ君”です。

 

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