1992年 京都教育大学の坪内稔典教授が
「8=は、1=い、9=く」という語呂合わせから
「8月19日を俳句の日」と制定しました。
その後、1994年には、松尾芭蕉さんの生誕地
である三重県上野市(現伊賀市)が「俳句記念日」
とすべく提唱しました。
更に、1998年には、正岡子規さんの故郷である
愛媛県松山市の青年会議所が「ハイクの日」と
定め「俳句甲子園」を開催しました。
2014年になり、「おしゃべりHAIKUの会」に
より「俳句記念日」と定められ、「日本記念日協会」
も認定するに至りました。
“俳句、俳諧”に関しましては、歴史の古さ、
日本語という言葉への習熟とそれを使いこなす
感性、ひらめきなど、
極めて奥の深さを求められる一方では、
日常の身の回りを見る目の繊細さをも必要と
されるもののようで、
どうしても「己の非才」を恨めしく思えて
しまいます。
「万葉集」の「額田王」を始め、「西行さん」、
「源実朝さん」などは、今の私達にも充分な魅力を
感じさせる作品を残していますが、
“俳句”と言えば、やはり江戸時代の「松尾芭蕉さん」、
「与謝野蕪村さん」、「小林一茶さん」と
明治に入っての「正岡子規さん」に代表される
ように思います。
私の頭に浮かぶ代表句として、
「芭蕉さん」の「古池や 蛙飛び込む 水の音」
「蕪村さん」の「春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな」、
「一茶さん」の「痩せ蛙 負けるな一茶 ここにあり」、
「子規さん」の「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」あたりは
いつの間にか諳んじてしまっている人も珍しくないのではと
思います。
昨今、テレビでも人気を博している“俳句”ですが、
語句の順序を変えたり、助詞の一つを変えたり、
文言の一字を差し替えたりするだけで
劇的に「表現している景色」や「格調」までもが
一変してしまうという所には
毎回感心させられているところです。
他の国々の言語にも多かれ少なかれあることとは
思いますが、「日本語」ならではの、表現の幅や
深さを実感させられるところでも有ります。
又、常々、私が不思議に思っていることですが、
「五七五」と続く言葉の流れの「リズム感」に
何とも、得も言えぬ、人の息使いとマッチする
ものが有るように感じさせられるところです。
百人一首に有る「実朝さん」の
「世の中は つねにもがもななぎさこぐ 天の小舟の
綱手かなしも」、
「西行さん」の「嘆けとて 月やはものを思わする
かこち顔なる 我が涙かな」等は、
何度となく、私自身のその場の心情を表現して
くれているようで、
親しみを持たせられます。
昨今の日本の気象の変化には、
「花鳥風月を愛でる日本の自然との付き合い方」に
根本的な変化がもたらせられ、
更には「古来からの日本語」の持つ繊細さ、幅の広さ、
奥の深さ等にも変化させられるべくインパクトを
持ってしまうのではと
心配をさせられるものも有ります。
「芸術の域」にも評価される「俳句、俳諧」には
将来に亘り、変わらぬもののあることを
伝え続けて欲しいものです。
我家の“リオ君”は
今日は
「東山動植物園」です。
ママと二人で、
安城駅から電車に乗り、
名古屋の地下鉄を使って
「動植物園」です。
始めての体験づくしの
一日になると思います。
「熊さん」、「象さん」、「キリンさん」を
見て、遊園地で遊んで、
「おにぎり」を食べると
昨夜から張り切っていました。
帰りの電車では、
恐らく「夢の中」だと
思います。
夜には、たっぷり
今日一日のお話が聞けると
思います。
ママにはご苦労様ですが
どんなお話が飛び出すか
楽しみな“リオ君”です。
「お盆」が過ぎ、
来年のカレンダーのご用命が
入り始めています。
来月に入れば、
「来年の年賀状」も
スタートです。
「コロナの分類」の見直しも
本格化しそうですが、
来年のお正月が駆け足で
近づいているように思います。
お客様のご期待に
答えられますよう
頑張りたいと思います。
よろしくお願い
致します。
アンクリエイト

