1582年(天正10年)6月2日、京都、本能寺で

「織田信長さん」が家臣であった「明智光秀さん」に

攻め寄せられ、自害しました。

このことから、6月2日は“裏切りの日”とされています。

 

「裏切り」とは、約束や同盟関係を捨てて、約束を

破ったり、相手に寝返ってしまう行為や、

信頼や期待をされている立場に有りながら、

その信頼を裏切ったり、期待に外れる結果に終始して

しまう事象や行為等の総称で、

古来、老若男女、古今東西を問わず繰り返され、

烈火の怒りを掻き立て続けてきているものです。

 

歴史上にも残るものとして有名なものですが、

・イエスの弟子であり、「選ばれし使徒のひとり」でも

ある「イスカリオのユダ」が、「銀貨30枚でキリストさん

を引き渡した」裏切り、

・「ブルータスお前もか」の台詞(せりふ)であまりにも

有名ですが、議場で刺殺されてしまう「シーザーさん」

に対する「ブルータス」の裏切り、

このあたりは世界の歴史上でも極め付きの

「裏切り」ではと思います。

 

日本の歴史上でも「裏切り」「寝返り」は、絶え間なく

繰り返されて来ていますが、

多くは、戦国時代や不穏な時代背景のもとに

発生し、記録されているように思います。

源平期の「藤原泰衡さん」、関ヶ原の「小早川秀秋さん」、

戦国前期の「松永久秀さん」などは代表的ではと

思います。

 

しかし、「裏切り」にも、二種類が有ると思います。

一つは、前記しましたように、歴史や記録等にも

残る物、根底には「欲得」や「思惑(おもわく)」など

「何らかの意図の有るもの」、

もう一つは、表だって現れる事さえ稀な、

日常の人間関係や小さな社会環境の中での立場の

「踏み外し」で起きる「これといって裏切る意図は

無いままに、特定の個人や少数の関係する人々、

或いは、不特定の大衆にまで、失意や幻滅、

失望、無念感を生じさせてしまう」ものと

有ります。

 

特に「後者の裏切り」に注目して見ますと

男女の性差も有るかも知れませんが、

私自身を振り返って見ても、

辿ってきた人生の毎日に「お叱り」の言葉を

頂いていたようにも思います。

 

近世の日本と言う国にとっての残滓に堪えない

「裏切り」は、「ソ連の不可侵条約を破棄しての

侵攻」が有りますが、

「裏切り」の発生する背景に有るのは、

将来に向けての「期待」や「約束」の存在です。

味も素っ気も無い表現ですが、

「勝手な思い込み」です。

 

大原則は「諸行無常」であり、

「何が起こる物か判らない」、

「神のみぞ知る」のが「未来」です。

 

「契約」や「約束」を軽んじるものでは

有りませんが、

それだけになお“今の今を大切にする”、

“今、目の前の人に喜びを提供する”という

基本の重さを痛感させられるところです。

 

歴史上で「裏切り者」として、「悪(わる)の代表」

とも評され続けている「光秀さんも秀秋さんも

久秀さん」も、それぞれ個人としての人間性には

寧ろ、魅力的な人物像を見せています。

 

「罪深き人間の生」を思いますと、

「救いの手が有る物であれば、すがりたい」という

気持ちも理解できるように思います。

 

何とか、子や孫等、後輩たちに

負荷を残すことなく

余生を過ごしたいものと

考えるところです。

我家の“リオ君”は

ちゃっかりしています。

 

「リオ君のママ」は、

「何でも自分でできますように」との

方針ですので、

衣服の着脱、スプーンやフォークの

使い方など

「手伝わない、手を貸さない」ことが

基本です。

 

一方、「じっちゃん」は、

「ママの基本方針は理解して

いますが、何かにつけ、手を出さづには

居られません。」

 

どうしても、

じっちゃんの居る時には、

「じっちゃん、おしっこ」、

「じっちゃん、うんち」、

「じっちゃんとお風呂」、

「じっちゃんと寝んね」など、

何でもじっちゃんに降りかかってきて

しまいます。

 

しかし、

「ありがとう」の言葉と

大きな笑い声が

その都度、聞こえる“リオ君”です。

 

今暫くは

このままでもと…

 

自分勝手に考える

じっちゃんです。

今日は天気も良く、

早朝の空気には

涼やかさも感じます。

 

始めてのお客様の場合

「名刺」のご相談からが

多くを占めますが、

 

「たかが名刺、されども名刺」です。

 

一味もふた味も違う

アンクリエイトらしさを

堪能して頂くべく

今日もお客様をお迎えしたいと

思います。

 

よろしくお願い致します。

 

アンクリエイト