今日の記念日は、私の気持ちもワクワクさせて

もらえる”ジャッキー・ロビンソンの日”です。

 

1947年4月15日、ロサンゼルスドジャースの本拠地

「エベッツフィールド」での開幕戦に、

黒人初のメジャーリーガーとして、“ジャッキー・ロビンソン”が

デビューを果たした記念日です。

 

今季は、75周年にあたり、選手、監督、コーチも審判まで

「ドジャースの永久欠番となっている42番」を付けて

プレーをします。

 

“ジャッキー・ロビンソンさん”については、後年「世界を

変えた男」のタイトルで映画化もされていますが、

1919年から1972年までの短い生涯でしたが、

人種差別の真っただ中に有った「アメリカ社会」の

未来への歩みに、大きなインパクトと灯りをともし続けた

ように思います。

 

1919年、ジョージア州カブスで生まれました。生活保護を

受けざるを得ないほどの「貧困家庭」でした。

しかし、「兄、マシュー・ロビンソンさん」は、1936年の

ベルリンオリンピックの200メートル走で銀メダルを

獲得するほどのスポーツマンでした。

 

“ジャッキー・ロビンソン”も、万能のスポーツマンに育ち、

高校へは「フットボール、バスケットボール、野球、

陸上競技」の4種目でのスポーツ奨学金をもらって進学し、

通学できるほどでした。

大学からのエントリーも引く手あまたでしたが、

「カリフォルニア大学ロスアンジェルス校」に進学しました。

 

大学は、中途退学し、軍隊に入ります。

ここでは、当時の「ボクシング 世界ヘビー級チャンピオン」

であった「ジョー・ルイスさん」の庇護と推薦を受け、

「陸軍少尉」の処遇を受けるに到りますが、

 

1945年に退役し、プロ野球の「二グロリーグ」で「プロ野球

選手」としての人生に踏み込みます。

「二グロリーグ」でも大活躍し、注目を集めました。

 

この時、彼に目を付けたのが、当時のドジャースの会長で

あった「ブランチ・リーさん」です。

1947年、メジャーリーグとの契約に進みます。

この契約時の有名な逸話は皆さんご存知かもしれませんが

下記したいと思います。

 

「リッキーさん」の言葉です。

「君はこれまで誰もやってこなかった困難な戦いを

始めなければならない。その戦いに勝つには、君は

偉大なるプレーヤーで有るばかりか、立派な紳士で

なければならない。仕返しをしない勇気を持つことだ。」

と言い終わると、“ジャッキーさん”の右の頬を殴りつけ

ました。

その後、「ジャッキーさん」は、「頬はもう一つ有ります」

と答え、契約に到ったということです。

 

入団して以降は、人種差別からの「嫌がらせ、疎外、不公平」

など、数知れぬほどの迫害を経験しながらも、

10年に及ぶ大リーグでの在籍の中で「首位打者、盗塁王、

シーズンMVP」等、トップクラスの活躍を続けました。

 

引退後は「公民権運動」に注力し、アメリカ社会の前進に

貢献しました。

1962年には、「ルー・ゲーリックさん」以来となる

「有資格初年度での野球殿堂入り」という偉業も

果たされています。

 

1972年の「ジャッキー・ロビンソンさん死亡」のニュースは

日本でも大きく扱われ、新聞やテレビでの特集も

組まれ、報道されたことを記憶しています。

 

類まれな、天性の運動能力は勿論ですが、

彼の裏付けされた「知性、理性、知恵」の部分には

いつも驚嘆し、羨望の先の憧憬を憶えさせられる

ものが有ります。

まさに「肌の色を超越する、不世出のメジャーリーガー」

だと思います。

我家の“リオ君”も

ゴムボールを上から投げる

ことができるようなりました。

 

握力と肩まわりの筋肉が

付いてきたことと

使い方がポイントのようですが、

「キャッチボール」に

近づいています。

 

近くの「アルペン」で、

グローブとバットを

見に行く日も楽しみです。

 

良く寝て、良く食べて、

一杯走り回って欲しい

“リオ君”です。

「コロナ」、「オミクロンの亜種」の

状況は、何とも微妙です。

 

一触即発の、波状攻撃も

視界に入ります。

 

それはそれ、これはこれ、

充分な注意はしつつも、

やるべきことは、

手を進めたい気分です。

 

今日も、沢山のお客様の

「明日から」のお話を楽しみに

過ごしたいと思います。

 

よろしくお願い致します。

 

アンクリエイト