1954年(昭和29年)2月2日、第二次大戦の
敗戦後初めて「GHQ(連合国軍最高司令官
総司令部)」の許可を得て、“国際航空業務の
再開”が果たされた日です。
日本では、1929年(昭和4年)には「国際線定期便」が
開通していましたが、敗戦により、日本は非占領国
となり、その運航は禁止されていました。
1951年(昭和26年)の「サンフランシスコ条約」の締結
により、日本の独立が承認されたことを受け、
同年10月には「日本航空株式会社」が設立されました。
しかし、当初は、人もモノも壊滅状態であり、機体を
フィリピン航空からチャーターしたり、アメリカの
ノースウエスト航空からは、機体に加えて乗員も
リースを受けたりでの、国内線に限っての運行状態
でした。
1954年(昭和29年)2月2日の、「国際線初飛行」は
東京、羽田空港発、ホノルル経由のサンフランシスコ行き
でした。
機体は、アメリカ、ダグラス社製のプロペラ旅客機で、
乗員は、日本人とアメリカ人の混成チーム編成でした。
乗客は、全38席の客室に招待客14名、一般客5名の
合わせて19名をのせてのものでした。
昨夜、彼の「石原慎太郎さんの訃報」をテレビで
知りました。
「芥川賞受賞小説 太陽の季節」の発表される
2年前の出来事ですが、「石原さん」の口から出る
感想の言葉がもう耳にできない所には
寂しさも新たにさせられます。
東西の冷戦構造を大きく深刻化させる面では、
その加速化させる要因ともなった「サンフランシスコ
条約」です。
日本は、西側陣営の一員に明瞭に組み込まれた
という表明でも有りました。
ソ連、中国、東ドイツ等、「共産圏」をハッキリ敵に
まわすという選択でもありました。
「石原さん」と言えば、
「直情」、「罵詈雑言」、「国士」、「快男子」、「おぼっちゃま」、
「顔に直ぐに出る」、「自分の非を認めない」、
「否定されると剥きになる」、
など、長屋で生まれ、育ち、生涯を暮らすには
なかなか難しいものが有りそうですが、
「人徳」とも言えそうな、憎まれきれない
「愛嬌」の持ち主でも有ったように思います。
居れば居たで「うっとうしい、面倒くさい輩」である一面、
居なければ居ないで「もう一つ、物足りない」、
そんな風韻のある人物であったように思います。
ご冥福をお祈り申し上げます。
この2年ほど「コロナ騒動」で、国際間の往来は
随分、不便を来してはいますが、再開当時とは
格段の違いが有ります。
人間の文化、文明の発展と並行して、
人の行動範囲は一貫して広がってきています。
現在、将来には、地球を飛び出しかねない
勢いです。
将来に向けては、宇宙旅行も日常の物に
なってくるのかも知れませんが、
私の頭の中では、何トンもの荷物を積み込んだ
「ジャンボ機」が、空へ舞いあがり、音速を超す
スピードで目的地まで滑空する姿には
恐ろしさも付きまといます。
ついつい、「西行さん」に親しみを覚えます。
「ねがわくは はなのしたにてはるしなん
そのきさらぎの もちづきのころ」ですね。
この方が、落ち着きます。
我家の“リオ君”ですが、
コロナで保育園が
休園し、
元気をもてあまし気味です。
近所の公園でも、
2~3歳の幼児まで
マスクをしています。
人に絡みついて
遊び耽るという楽しみを
真っ向から否定すべく
コロナが
立ちふさがっています。
幸い、安城は、何もない
野山は沢山あります。
せいぜい、駆けずり回って
元気の発散に
協力したいと思います。
今しばらく頑張ろう、
“リオ君”です。
先週来、開店、開業の
ご相談が入り始めています。
「士業事務所」、「飲食店開店」、
「美容室開店」、「ネイルルーム開店」など
です。
「ロゴデザイン制作」、「開業ご挨拶文」、
「開店時販促方法」、その他、看板、包装紙、
シール、受注用紙、会計用紙、ゴム印などから
諸方面への手続きなどまで
相談内容は多岐に亘ります。
さあ~、これからという意気込みに
元気も頂きつつ、
力一杯のお力添えをさせt頂きます。
今日もよろしく
お願い致します。
アンクリエイト

