父は、現在の半田市有脇町で生まれ

育ちました。大正時代のことです。

 父方の祖父の仕事は庭師と百姓でしたが、

なかなかの男前で、地元で作られた歌にも

謳いこまれたそうです。又、何人もの職人も

抱えていましたので、家の雰囲気は、いつも

賑やかで、ドラマに見る江戸の町火消しの

家に通ずるように思います。

 

 そんな家のおかみ役を勉めた祖母ですので

人一倍気が強く、並みの男も怯ませるような

テキパキとした女性だったそうで、母に言わ

せれば、無理を承知で口にする珍しいほど

キツイ姑だったとのことです。

 それでも、祖父や父の心遣いと、幸いにも

父が転勤族で、同居せずに暮らせたことで、

それほど険悪な関係にもならずにすんだとの

ことです。

 

 祖父は、父が長男で、生まれながらに、美形で賢く、

よほど自慢の息子であったようで、父に子供用の

将官の軍服を着せ、お祭りで使う、白馬に乗せ、

写真を撮ったり、田舎町を引いて歩いたりした

ようです。確かに、絵を描かせても、習字を書かせても

なかなかのもので、地元、亀崎神社に何度も

奉納されたようです。

 兄弟は、父を含んで6人で、次男は、軍人、3男は

新聞記者、4男はサラリーマンで、妹2人は、それぞれ、

近くにお嫁に行き、平凡に暮らしています。

 

 一方、母方ですが、母は大正13年に、碧海郡上郷村

に生まれました。祖父の定左ェ門は、根っからの百姓で

先祖の跡を継ぎ、熱心に仕事と、村の役に励んでいたと

いうことです。その弟は、ギンさと呼ばれ、新家の百姓の

傍ら、仲間と岡崎で人力車の会社?を作り、頑張って

いたそうです。

 祖母は、田舎では、かなり裕福な家に育ったようで、

近くのお寺で小さいころから習字手習いを受け、長じては

短歌のグループに身を置いたとのことで、少々推測ですが、

夫には生意気なところが有ったのではと思います。

 そのため、チョイチョイ、夫婦げんかが勃発した

ようですが、母の記憶では、祖母の方に問題が

あったにも関わらず、祖母に有利な感じの別れに

なっていたようです。

 母の兄弟は3人で、兄、母、妹の1男2女でした。

母の兄は非常に優秀で、小学校の表彰の折には

いつも表彰されていたそうです。先生には、

「あの金松さんの本当に妹さんかしら?」と

いつも不思議がられていたそうです。

 金松さんは、青年学校を卒業すると、村役場に

就職し、数年で応召され、終戦後、村会議員に

なりましたが、結核で亡くなりました。

 私より一つ下の従兄弟がおり、兄弟のように

育ちましたが、母が何かにつけて口にする

「小さいみっちゃん(従兄弟のこと)が、縁側に顎を

のせて、いつも金松さんの寝ているベッドを見ていた」

という言葉が頭を離れません。

 祖母については、まだまだ、書きたい材料が

沢山ありますので、又の機会にしたいと思います。

 

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