qui est-ce que je suis? -26ページ目

「記事を書く」

1/11


たまたまその存在を思い出して、

大学生の時から綴ってる日記を見てみた。


(そういう時はたいてい、未来に迷ってる時・・・)


誰に公開するでもない自分だけが見る「日記」だから、

書きたい事を書きたいように書いていて。


今読み返しても自分らしいし、

「よくこんな表現できたな」って思えるものが多々あって、


「あー書くことが好きなんだなあ」という変わらない部分に触れて安心したり。

旅の道すがらもなにげない会話のかけらも目にした風景も、

全てが言語化される存在として自分の中に取り込まれるから、


物事の認識方法は目にするあらゆる出来事を言語化しようとする回路を通る。


だから妙に客観的だったり、

自分のことであっても他人事っぽかったりして、


それゆえに観察・分析・整理・対策・解決までが一連の流れになったりしてる。

そんな性質はさることながら、

気持ちよく言語化できる場合とそうでない場合とがあって。

そこにどんな違いがあるのかを考えてみたら、内向きか外向きか、っていうベクトルの差。


自分しか読まないものには、

気持ちの変化や流れや自戒や整理や、

思うがままに主語を明記することなく発散できる。

でも、ひとたび誰かの目に触れることを前提とすると、

(こういうブログとか)

何をどう書けばいいのかわからなくなる。

日常の垂れ流しには興味がなくて、


じゃあなんでブログやることにしたの?


って立ち止まってみると、


目的のためには話題を選んだ方がいいかなとか

誰に向けて何を話したいんだろうとか


いろいろ考えちゃって、


そうまでして書くことなのかな書きたいのかなって思ってしまう。


そうすると突然書けなくなる。

言葉が意味を持たなくなる。

綴っていても楽しくない。


読者をあらかじめ想定した文章作成、はまだ自分には課せないから、

しばらくは自分への問いかけとして記すことになる、する、しよう。


考えすぎないように、ね。