(石橋湛山)

今日はいつもと違った内容になります。

4月27日、前橋市での「ふるさと未来講座」に参加してきました。

講座を主宰する中村紀雄先生には、十年前からお世話になっています。

今回は、敗戦後の「日本復興」に尽くした首相の、

吉田茂、石橋湛山、岸信介、池田勇人を語りました。

 

中村先生のブログで、私の事に触れていただいたので、いつもの予定を変更して、

生まれ育った群馬県訪問と、講座内容を書きます。

 

首相本命の鳩山和夫が、GHQから公職追放となり、急遽吉田茂が組閣となった。

戦前は外交官として親英米寄りであったことから、軍部から快く思われなかった。

東久邇宮、幣原と終戦内閣を経て、吉田茂が組閣したのが1946年5月22日。

議席を持たないまま、石橋湛山は大蔵大臣に就任。翌年の公職追放で辞任。解除で復党するが吉田批判で自由党除名処分となる。1954年鳩山内閣で通産大臣に就任。

1956年鳩山の後任で組閣したが、難産で混乱。ここで過労から倒れ、国会を欠勤。

戦前、浜口雄幸が暴漢に襲われ、国会欠勤を批判した湛山は、潔く辞任。62日間だった。米国は中国・ソ連との関係回復策を嫌い、次の岸信介が𠮷田路線に近い、親米政権となる。安保騒動で後継首班は池田勇人となるが、咽頭がんで東京五輪閉幕直後で死去。池田を大蔵事務次官に抜擢したのは石橋湛山が大蔵大臣在任中だった。

 

昭和20年から40年迄の復興期は、経済再建と国民生活の安定。戦後世界政治での日本の立ち位置の確定だった。政局の混乱は毎度のことで、55年体制が構築されるまで紆余曲折を経た。

 

面白いのは石橋内閣で岸信介を外相にして、天皇に内奏したとき「天皇は岸は先の大戦で東条英機と大きな責任がある」として、湛山に問いただしたという逸話である。これは意外だったようで、あの手この手をつくして、やっと天皇に承知してもらったという。自由党、民主党の確執が続く中で政局は困難の連続だったようだ。

この時期を55年体制で乗り切った自民党は、以後、長期政権となり細川内閣誕生まで続く。

私は石橋湛山を先生がどう語るか? 前日の情報で知り、飛んで行ったのでした。帰路で理解が不十分だったと反省。文学部哲学科出身でありながら、経済をよく勉強した方で、ケインズ経済学(マクロ経済)を活用した功績、ソ連や中国との関係も重視したことは、異色の政策だった。なにより、日露戦争以後の日本の大陸進出(満州問題)に反対の論陣を張り、「小日本主義」と「満州放棄論」を主張したことである。軍部の脅しや威圧に屈せず、節義を貫いた。信念の人だったようだ。

 

東京大学出身者が常態化した首相の座で、私立大学出身で初の総理大臣だった。「官学礼賛私学蔑視」を突破した最初の人だった。

今、「石橋湛山全集」が刊行されて、見直し論が進んでいるという。

 

人生の出会いは有難いもので。𠮷田松陰を勉強していたことからお世話になった。前橋で𠮷田松陰の講演機会を設定して頂いた。その経緯は𠮷田松陰の妹と結婚した楫取素彦が群馬県の初代県令で数々の功績を残した。先生が群馬県議会議長をされたことで、「楫取素彦顕彰会」が設立、その会長をされたことで出会いの機会となった。