森田正馬全集第二巻279頁。

 

『神経質の本態及療法』

 

この博士論文の「序」に大切なことが書かれている。

『病を治するのは、其人の人生を全ふせんがためである。生活を離れて、病は何の意味もなさない。近來医學が益々専門に分る々事と、一方には通俗医學の誤りたる宣傳とのために、医者も病者も共に、人生をいふ事を忘却して、徒らに病といふことにも執着し、所謂「角を矯めて牛を殺し」、「人参を飲んで首をる縊る」事の如何に多くなったかといふ事は悲しむべき事である』と。

意味深長なことばですね。

 

 

 『森田療法の人間観』

 

 森田療法の魅力は、神経症の治療法というだけでなく、人間観、人生観、自然観を内包した、おおらかで柔軟な思想だということです。

この単元では、森田療法を今後の生き方の指針とするために、その概念を学びます。

 

 人間観とは、森田療法がめざす全体像(全体概念)のことです。

すなわち、ヒポコンドリー気質を持つ神経質者が、誤った考え方を正し、正しい生活態度を実践することで、神経質症状を乗り越えていく一連の過程であり、また、神経質のよさを発揮して、自分らしくイキイキと生きていくベースとなる考え方です。

 

(1) 流れに乗って生きる 

   

   ・私たちが苦しんだのは、静かで穏やかな心や、安定して環境がどうしても欲

    しかったからです。けれども現実は不安定で時々刻々移り変わっているもの

    です。

 

   ・周囲をよく観察してみれば、自分も環境も、そして心も、一定の所にには

    とどまっていません。すべては流れ、動いています。その動き、流れに乗っ

    ていきることが、私たちの生なのです。

 

 

(2) 自然に服従し、環境に従順なれ

 

   ・これは症状にとらわれない生き方を著したことばです。

    次のように読みかえてください。

    「自然」 = あるがままの感情

    「境遇」 = 周囲の状況

 

   ・不安・恐怖などのいやな感情には抵抗せず、感じたままにしておくしかあり

    ません。そして、心をひとつのことに固着させず、周囲の人やものごとに気  

    を配り、その場の役に立てるよう、臨機応変に工夫していくということです

    す。

 

   ・生きていくうえで、自分がコントロールできない部分は数多くあります。

    自然界ばかりでなく、自分の心や感情でさえ、自分の思うようには動いて

    くれないのですから、周囲が自分の思うようになることなど、まして不可能

    です。変えられるものは変え、自分ではどうにもならないことは潔く受け入

    れるしかないのです。

 

 

(3) 事実唯真

 

   ・事実だけが実体のある事実です。言語や思想は、それを表現する人間がつく

    った「観念」であり、事実を表すひとつの手段にすぎません。

    事実を見ないで、恐怖や不安だけを排除しようとすると、そこの様々な迷い

    を生じます。

    事実を自分の都合のよいように理屈づけ、安心だけを得ようとすることから

    混乱と迷いに陥ることになります。

 

   ・観念や想いではなく、事実を拠り所にすれば、ものごとがよく見え、よく

    観察できます。

    いままで見えなかった大切なことに次々に気づいていくことができます。

    そのためには、いつも「実際的」であろうとすることが必要です。

 

 

(4) とらわれる心・感じる心

 

   ・「感じ」は人間の潜在能力を伴った総合的な能力です。理知ではとらえきれ

    ない部分も、瞬時に判断しているのが五感のはたらきです。

    その「感じ」が伝える情報を押え込まずに、日常で生かすことで「直感」

    養うことができます。

 

   ・「とらわれ」は、ある考え方や言葉を、ひとつのスローガン(思想)にして  

    いくことから生じます。それが自分をさらに窮屈なものにしています。

    「こうしなければならない」という想いから解放され、もっと楽に、自由な

    自分になっていいのです。

 

   ・症状だけを取り除こうとする試みは、逆に強迫観念を強めます。

    神経症の根源を断つには、焦らず、あきらめず、事前の感性を育んでいくこ

    とが実は近道なのです。

    そして「思考の迷路」から抜け出し、「直感」から行動できるようになるこ

    とが、森田療法の目標です。

 

 

(5) 自覚と気づき

 

   ・私たちは、思考が優先するあまり、教義的な考え方にとらわれ、周囲のこと

    に目が向きにくくなっています。

    理屈を追うことをやめて、日常のことを着実にこなしていくうちに、周囲や

    自分の事実に「気づき」ます。これを森田療法では「自覚」といいます。

 

   ・しかし、この「自覚」にとらわれると、これが再び「かくあるべし」となっ

    て自分を苦しめます。

    気づいたことも流れるままでいいのです。

    それはいつか大事なときに自然にこころによみがえってきて、私たちの

    生き方を支えてくれることでしょう。

 

 

 

森田先生は、理屈でものを考えてしまい、それがあたかも「事実であるかのように」思い込んでいるという考え方を、厳しく戒めています。

「感じ」から出発することの大事さを説いています。

 

そして、「森田の考え方はどうも怪しい」と思いながらも、まず素直にいちどは受け入れてみよと云われた。「孔子は仁・森田は素直」ともいっています。

いったいに神経質は、「勝ちたがり屋」であり、それが根底にあって「他人の素晴らしいところ」を見出しては「劣等感」を起こすという。

劣等感とは、負けたくない、勝ちたがり屋の考え方の反面なのです。

 

森田療法の考え方、人間観は「自然体」で生きよ! 教えているように時々思い出すことがある。他人の優れた面をみて劣等感を起こすのでな、「あやかりたい」と考える位で丁度良いのであり、また「流石だな」と感心するだけでもよいのである。

 

自分を、「かくあるべし」で見ないで、「かくある自分」を自覚していきなさいと云っているのかもしれない。新緑の季節の美しさに感動し、美しく咲き乱れる花をみて心が癒される人間でありたいものです。