13回めの理論学習の紹介です。

写真のテキスト冊子では、『純な心』の単元ですが、

長文なので分割しました。

内容は、「感じ」「恐怖突入」「共感」「補足説明」です。

 

(1)『感じ』

 

① ものごとには深く注意してみると、私たちが持っている感性は、敏感にいろいろ

  なことを感じさせてくれているのが分かります。  

  かくあるべしという気持ちから離れて、物事の本質や、目の前のことに注目する  

  ことが大事です。

 

② 周囲の事に心をとめていくことで、何かの「感じ」がおこってきます。

  その感じに対して理屈を挟まずちょっと手を出すと、感じは高まり、興味や進歩

  が生まれてきます。

 

③ 観念的な世界から離れて、実際の「感じ」を受け止めることにより、感じと理知

  の調和が生まれ、私たちの行動は修正されていきます。

 

 

(2) 『恐怖突入』

 

① 症状のために逃げていたことを、不安を感じるままに行うことを「恐怖突入」と

  いいます。

  自分の怖い気持ちや認めたくない感情を、嫌々でもそのまま注視してみることで

  す。

 

② 不安や恐怖など、自分が嫌がっている感情と向き合うことはとても恐ろしいこと

  ですが、「恐怖」そのものになりきり、自分の感情をそのままに見つめることが

  できたとき、恐怖が変化し流れる経験をすることでしょう。

  これが「あるがまま」の体験であり、「不安・恐怖になりきる」ことです。

 

③ 感情は固定的なものではなく、自然に任せておけば適切に働き、状況に応じて

  動き、変化し消えていきます。

  ときには、逃げることがあってもよいし、いつも解放される瞬間があるわけでも

  ありませんが、この経験を積むことにより感情を素直に受け入れられるように

  なります。

 

④ あるがままであるとき、「思想の矛盾」はなくなり、はからいもなくなり、

  苦痛も消滅します。

 

 

(3) 『共感』

 

① 私たちはどんな感情を持っても構わない、感情と云う部分では皆平等です。

 

② 自分が避けたいと思っている嫌な感情も無視せず、しっかりと認めてあげること

  で、今まで自分を縛っていた厳しい価値観から解き放たれて自由になれます。

 

③ 厳しい価値判断で否定していた様々な感情や、それを感じていた自分を事実と

  して認めていくことで、それまで持っていた差別観が平等感へ転換でき、他人に

  対しても真の共感が持てるようになります。

 

 

(4)『補足説明』(純な心)

 

 水谷啓二先生による発見誌表表紙のコラム(昭和36年第5巻第5号通関19号)より発見誌・平成30年3月号に転載された文章「借りものと本もの」が「純な心」を分かり易く説明していますので、補足説明として下記に転載しました。

なお文中の「純なる感じ」は「純な心」と同じ意味です。

 

 森田先生は、「純なる感じ」から出発せよと私どもに教えられた。

純なる感じとは、あやまって皿を割った場合、「ああ、惜しいことをした。何とかならないものか」と、皿の破片をつぎ合わせてみる。

そういう感じ、態度のことである。

ところが、私どもは後天的に、さまざかな悪智を吸収しているので、この純なる感じというものがすっかり蔽われ、発現しにくくなっているのである。

この純なる感じというものは、万人共通のものである。

皿を割って惜しいことをしたと感ずるのは、割った本人も、所有者もそれを見ていた人も共通であって、この純なる感じのままであるときにそこに対立関係はなく、共通と親和関係があるだけである。

ところが「何といって言い訳しようか」と考えるときにはすでに純なる感じは曇らされて自己防衛的になり、「新しい皿を買って返せばよいだろう」とおもうとき、すでに皿の所有者に対して対抗的になっている。

 また、「これからは、皿の取り扱いに注意しよう」とか考えるのは、修正主義的なとらわれであって、同じ失敗をくりかえすことになる。

なぜならば、この種のひとにとっては自分自身が注意深い人間になることが大事であって皿そのものをもったいないと思う心が乏しいからである。

 森田療法の眼目は、もろもろの悪智を去って、私どもに生まれつき備わっている「純な感じ」が活発に働くようにすることである。

この純な感じが発現するようになってはじめて、その人の生活は創造的、発展的になり、以前とは打って変わって生き生きとし、その人が本来持っている良さ、美しさが全面的に発現してくるのである。

 一般の人々は、ほんとうの自分の感じ、自分の考えよりも、他人の言葉や考え方に支配されつつ生活しているものである。

「自信をもたなければならない」とか考えてむりに付け刃の自信を持とうとし、「人前でおどおどしてはならない」 とか考えて、むりに平気になろうとしたりするのもその例である。

そういう人は、自分自身で考えているつもりでも、実は他人の言葉、社会一般に流布されている間違った考えに支配されているのである。私どもの心の中には、自分の純なる感じ、それから出発した自分の考えとは異なるものが、何時の間にか垢のようにこびりつき、真実の自己、純一無垢な自分というものが蔽いかくされている。

このように借り物で考え、借り物で生活いるところに、個性の発揮、創造性発揮のよろこびがあろうはずがない。

 私どもは一度、すべての借り物を捨て、心の垢をぬぐいい去り、純一無垢な自己に立ち還り、そこから再出発しなければならない。

そのときはじめて最上の知慧と人間愛の発現する境地が開け、「日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり」というように、たえざる創造と社会に寄与する生活がはじめるのである。

 森田先生のことばに、「かくあるべしという猶ほ虚偽たり、あるがままにある即ち真実なり」といことがあるが、「かくあるべし」が他人のことばに支配された考え方であり、借りものの思想である。

 そして、「あるがまま」が本物の自分、純一無垢なる自分なのである。

 

 

 

 この補足説明は、言葉ではわかるが・・・という理解の仕方が多いようです。ですので、森田先生は、高学歴の人ほど「かくあるべしで鍛え上げられてしまっている。ですから、学校教育のやり直しのようなものである」と形外会で云っています。

 

 本当の自分、あるいは自己の本来性が隠れてしまい、無自覚となっているのだともいう。水谷先生は、入寮(入院)者が苦しいと訴えると、君はまだわからんのか? 苦しかったら素直に苦しめばよい。と厳しい言葉で返したという。

 嫌なこと、辛いこと、嫌いなこと、苦しいことから逃げようとする生き方、考え方に自分勝手な姿勢があると指摘した。

 

 これらが理解、体得できるまでには時間が必要なのである。森田療法が、生涯学習といわれる所以である。「根治」というのは、神経質が陶冶鍛錬されて確固たる自己が形成されてはじめて治るのであって、再発しないという意味でもある。

 

 畑や庭に生える草や草花は、土から上にでている部分を「むしりとって」も、やがて時間がたつに従って、再び生えてくる。

 草の根までとって初めて再び生えて来なくなるのです。根治はこんな姿です。