【中村紀雄先生】のこと

中村紀雄先生のブログ『人生意気に感ず』のリブログです。

 

中村先生は、今年で83歳です。

早朝のランニングを欠かさず、毎日続けています。

私の出身地、群馬県の「県議会議長」を長らく務めました。

叙勲祝の時、招待状を頂いて、前橋での「祝う会」にも出席した。

 

群馬県日中友好協会の会長をされており、昨年秋に北京を訪問した。

天安門広場に入場する時の厳戒態勢で、胸のポケットに入れてあった

原稿を没収されたそうです。

 

11年前に『楫取素彦読本』を執筆して、県内の小学校教育に

活用してもらっている由。また県民必読書であります。

楫取素彦は、明治十年代に「初代群馬県令」を務めた方である。

奥様は𠮷田松陰の妹「壽」さんである。

 

明治の県令は今の県知事と違い、中央政府から派遣された。

明治維新政府は「薩長藩閥」政府と云われ、鹿児島・山口の

両県出身者の多くが新政府の要職を占めていた。

それゆえ、山口県出身の楫取素彦は政府の信頼があつい県令であった。

 

群馬は幕末の「生糸産業」が日本の主要輸出品であったから、

県令は其の支援策を推進するため、陰に陽に生糸産業を支援した。

こうして、2013年が「楫取素彦没後百年」に当っていたのだった。

 

楫取素彦読本は、それに合わせて出版されたのである。

その情報を聴いて、楫取素彦顕彰会事務所に購入注文をした。

その事務所は、中村先生の自宅であった。

購入が機縁となり、没後百年記念行事に出席をしたことから、

先生にお世話になることになった。

 

翌年には、顕彰会で私に「𠮷田松陰」を語るよう先生から依頼された。

私は生まれ故郷への報恩の良い機会と喜んで引き受けた。

当日は、楫取の五代目子孫にあたる方も来賓で来てくれた。

約350名もの聴衆が聴講し、松蔭大学から贈られた「花束」が舞台に飾られた。

始まる直前、楫取さんと打ち合わせの時、二人の共通の友人を私は切り出した。

 

その友人は、私の大学時代の語学クラスが一緒で、楫取さんが勤務している

会社で親友でもあった。話を聞いて「これは奇遇だ!」と楫取さんは驚かれた。

それ以来、毎年の年賀状交換をはじめ交流が現在まで続いている。

中村先生とは、𠮷田松陰の研究書をはじめ情報交換がつづいており、

感謝しきりであります。

 

先生は、前橋高校の定時制を卒業後、東京大学に学んだ経歴があります。

初めて県議会議員選挙に立候補した時、最終日には東大総長の恩師である

「林健太郎」先生が、選挙応援演説に駆けつけてくれたという。

東大総長が、教え子の選挙応援にはるばる駆けつけるのは、

まさに、中村紀雄先生の「人生努力」を称えてのことに違いない。

 

林総長が文学部長時代には、有名な「東大紛争」が起きている。

「大衆団交」で学生とわたりあい、一歩も引かなかった林健太郎文学部長。

その林健太郎部長とともに、紛争解決で踏ん張ったのが「辻村明」教授で、

私の森田療法との縁結びをしてくださった先生である。

 

私は、当時「一読者」として、先生の体験記(ごま書房・私はノイローゼに勝った)を読んで、お礼の手紙を書いた。辻村先生は大変に喜んで、すぐに返信が届いた。

のみならず、一読者の私に『辻明塾』入塾のお誘いをしてくれた。

私は喜んで、日本文化研究会という塾生になった。人生は「出会い」といわれる。

中村紀雄先生ー林健太郎総長ー楫取県令子孫(能彦)ー辻村明先生、と私の定年退職後の人生は、大変恵まれた機縁の絆で結ばれた出会いが継続発展した。感謝!

 

NHKの教養講座講師も、母校の卒業生奨学基金創設活動の褒賞かもしれない。

奨学金活動の仲間が、NHK出版の編集長(執行役員)で私に大仕事を頼んだのです。

人脈に恵まれるとはこういうことを云うのかもしれない。

 

私は残る人生を、森田療法を必要としている方々のために更なる勉強を続けます。

それはまた、辻村明先生への恩返しの意味も含まれます。

「人生、上り坂、下り坂、そしてまさかの坂」があるという。

その「まさかの坂」を世の為、人の為に役立つ機会に恵まれたことに感謝である。

 

昭和37年、15歳の中卒で社会人を出発、それが45年後に大学の教師の機会に恵まれた。定年後の𠮷田松陰の研究が機縁で、各地での講演、大学での講座が通算で250回を超えた。そして77歳の今も時に仕事がある。運命に感謝しなければならない。