森田先生は【自在な心】のありかたを、

「善し」とした。

「心は万境に随って転ず」とよく、色紙に書いた。

よく心は「水」に例えられる。

「水は方円の器に随う」とか、

「水の流れは、堰き止めるものがあれば、

自然に流れてゆく方向を見出す」や、

「水は高いところから低いところに向かって流れる」。

などなど、私たちの日常生活で目にする姿である。

 

その反対が「斯くあるべし」なのである。

「転じない心」は、自然ではない。

または、本当の姿ではない、という。

水を低いところから高いところに、

流そうとするものであるとでも、云おうか。

 

例えば、自動車運転中のバックミラーに映る、

景色は、一瞬たりとも静止しない。

心とは、流れるものである。

そう、心の流転こそ「心の真実」なのだ。

鴨長明が『方丈記』の出だしで書き出したもの。

「行く川の流れは絶えずして しかも本の水にあらず」、

と冒頭に書いた。

 

それを、神経質人は「斯くあるべし」で、

無理やりに、流れる心を、流れないようにしているという。

それゆえ「斯くあるべしという、猶を虚偽たり」とかいた。

上の写真がそうである。

 

つまり、「あるがまま」の心と正反対なのだという。

森田先生は「心を科学する」という、

心のありのままを云っているのである。

 

私も、入会した頃は先輩からよく聞いたことばです。

「かくあるべし」で鍛え上げてしまっている・・・と。

最初は、その意味が解らなかった。

今は、「物そのもの」にあることが、

実際の姿なのだと考えるようになった。

 

水谷先生が、森田先生の診療所に入院した時のこと。

「花に水をあげなさい」と指示された。

水谷先生は、指示に従って

「花の状態をよく観察せずに水をあげた」。

これを見ていた森田先生は、「君は何をしているのだ!」

と強い語調でいった。

 

水谷先生は「はい、花に水をあげています」と答えるや、

すぐに、「よく花を見なさい。君が水をあげている花は枯れている」、

君は、「枯れている花に水をあげて、どうするのだ!」と。

さらに、森田先生の指導の言葉は続く。

「美しく咲かせることに、水をあげる」意味があるのだと。

 

ですので、森田先生は「高等教育を受けた人ほど困る」ともいう。

水谷先生は、この時は「東大経済学部」の学生だった。

しつこい「強迫観念」に、困り果てて入院を許可してもらった。

しかも、第五高等学校(熊本)の学生時代から、

症状に悩まされて、森田先生に入院願をしたのだ。

しかし、森田先生は「大学の入学試験」を受けろという。

 

受験しなければ、入院は断るという。

水谷先生は、ひどい強迫観念で勉強どころではなかった。

だが、それでも受けろという。

それから、大忙しで必死に短期間勉強した。

結果は思いがけず、合格だった。

 

斯くあるべしという、思想でものを考えることが先なのだ。

だから「森田療法は学校教育のやり直し」のようなもの。

そんな云い方をした。

上の水谷先生の例でわかるように、

お使い根性で、云われたままをやる。

こういうことを、森田先生はダメだという。

 

つまり、花そのものになっての行動ではない。

枯れた花に水をやる東大生だったのだ。

臨機応変に心が命ずるのを、「かくあるべし」で、

ネジ曲げた考え方をするのを、皮肉っている。

 

思想は事実ではないと断言しています。

「事実唯真」と、好んで揮毫した森田先生。

自分で考えることをしない、

それらを嫌ったのであります。

「かくあるべし」は思想なのです。

 

ちょっと、うまく説明できなかったようだ。

思想で事実を「やりくりすること」を、

「思想の矛盾」とも云った。

高等教育を受けたばかりに、思想を事実と勘違いする。

「あるがまま」でよいのだ・・・と。

 

また、書きます。