上の写真が、森田先生が9歳の頃、

極彩色の【地獄絵】をみたという寺です。

 

正面からの撮影でなく、左半分のみが、

写っています。

私の訪問、第一印象は、

南国の太陽・陽ざしをいっぱい浴びる、

恵まれた地域に育った。

 

しかも、「郷士」という身分である。

郷士は、複雑な事情を抱えている。

土佐藩の郷士は、

もともとが、戦国時代の支配者、

長曾我部元親の戦闘(武士)集団、

であったが、豊臣秀吉の

全国制覇で、群雄割拠が破壊される。

 

彼方此方の、実力者が

最高権力者であった、

織田信長(建設途上)や、

後継者の豊臣秀吉が、

いわゆる「征伐」をして、

臣従させたのである。

 

それが、天下分け目の戦い、

と云われる「関ケ原合戦」で、

長曾我部は、敗者の側になった。

 

四国という、海を隔てた島。

そこで、徳川家康は

豊臣以来の、信頼できる、

山内一豊を抜擢して、

掛川六万石から、

土佐二十四万石に、

移転させた。

 

律儀な一豊は、

徳川の恩義にいたく感謝。

本来は外様大名であるが、

譜代大名と同様の、忠誠ぶり。

 

この陰に「内助の功」があった、

といわれる、逸話がある。

「へそくり」を蓄積して、

「いざ」大勝負と判断し、

名馬を購入して、

戦場の「功」を立てた。

 

だから、関ケ原の戦い(西暦1600)、

から、267年の後まで、忠誠一点張り。

 

しかも、山内容堂が藩主を継いだ。

彼は、山内家では支流の家柄、

しかも、改易をかろうじて、

免れて、藩主の座についた。

幕府の温情であった。

 

またまた、徳川に感謝である。

だから、薩摩や長州とは、

徳川に対する立ち位置や、

忠誠の在り方が違う。

 

倒幕への反対から、

慶應三年十二月九日の、

「小御所会議」では、

新政府に、徳川慶喜を参加させる。

こうした考えであった。

 

それを、岩倉具視が否定した。

この会議は紛糾したが、

決め手は、西郷隆盛の

「短刀一本」の逸話となる。

 

坂本龍馬が「郷士」階級だった。

これは、1760年代の

「明和年間」に、お金で、

「郷士株」を買ったので、

本来の「長曾我部家臣懐柔策」の、

郷士とは違う。

 

土佐には、もう一つ

郷士株を取得する方法があった。

江戸期の初期、新田開発が

各地で行われた。

 

土佐では、野中兼山の

経済規模拡大、または、

生産力向上政策によって、

貢献した人物を、抜擢して

百姓や下層階級から、

正規の武士に準ずる

「名字帯刀」を許された。

 

だから、土佐藩の「郷士」には、

三つの成り立ちがあった。

①、長曾我部時代の家臣、

②、土佐の経済規模拡大貢献(新田開発)、

③、商人で、富裕者が「金銭購入」した郷士。

 

坂本龍馬は、この③に該当する。

したがって、彼は徳川に何の恩義もない。

行き詰まった徳川政権は、さっさと投げ出す、

いわゆる「大政奉還」論者だった。

 

茲が、薩摩や長州と違う。

薩摩(島津)、長州(毛利)は、

徳川の成り上がりに対して、

力負けしただけであって、

徳川幕府に対して、

特別な恩義はない。

 

しかも、素性のよくわからない、

三河の山奥の【土豪】だった、

徳川と、出自が違う。

 

森田先生は、どの郷士であったか?

それを詮索することは、

私にはできない。

恩人のルーツよりも、

救われたことへの感謝が、

まず、先である。

 

おおよその見当はつくが、

茲では言わない。

裕福な郷士の家系と想像する。

 

郷士は、関ケ原から

山内一豊が連れてきた家臣を、

正規の武士として、支配階級に据えた。

 

この武士階級と、

郷士の身分差は、

絶対に越えられない。

 

能力は関係ない。

明治維新の頃の

板垣退助、

福岡孝弟、

後藤象二郎、等々

彼らの先祖は、山内が

掛川から連れてきた家臣です。

 

話が、変な方向になった。

 

また書きます。