「逆説の日本史」シリーズの書評は、本ブログでは初めて。

 近代史になると、思想面での井沢元彦の解釈が冴え具合がどうなるのか気になるところだが…。

 

1 第1章「帝国憲法と教育勅語」について

 

 明治憲法と教育勅語は、現代のリベラルな価値観に依拠すると批判・非難が絶えないのだが、これを井沢氏がどう評価するか、非常に気になっていた。

 

(1)帝国憲法

 明治憲法の制定過程において、イギリス風とプロイセン風のどちらにするかが大きな争点であったところ、本書は、イギリス風よりもプロイセン風の方が、天皇に絶対性があるがために平等推進機能を有していることに着目してくれている。

 主流派憲法学では、明治憲法では天皇が神聖不可侵であると規定されたために、我が国における議会制民主政治の定着が遅れ、近代化が不十分なものとなった、という評価が一般的である。しかし、キリスト教が定着した西洋では神の下に人は平等であり、だからこそ国民意識と民主主義が定着したのであるというように、何らかの絶対性のある存在が人の平等意識を形成するのである。そして、このような平等意識が国民国家と民主主義には不可欠であること、我が国において、江戸時代に天皇の神聖性が民間に根付いていたことから、憲法によって天皇の絶対性を追認・強化することは、国民の平等意識の徹底に寄与し、国民意識を形成し、議会制民主主義の成功につながったのは否定できない。

 すると、国民国家を作るという視点では、明治憲法は大成功であるといえる。内閣の地位が弱いことは、昭和になって欠点となるのであるが、それは昭和編で論じられるのだろう。

 

 また、信教の自由についても、主流派憲法学では、明治憲法ではこれが保障されていなかったとするが、第28条で明確に保障されていたのであり、しかも条文の制定趣旨が、オウム真理教のような破壊活動をする教団を排除する意味であることから、穏当ですらある。

 

 民主主義を振りかざせば安易に明治憲法を否定できると思っている左派・リベラルからすれば、容認できないであろうが、明治憲法を冷静に見ることができる評論が今後増えていくことを期待する。

 

 なお、八木秀次「明治憲法の思想」に詳しいが、明治憲法は制定当時に西欧において、こんなに政府の力が議会に対して弱い憲法なんて、運用できるのかといった、驚きの声をもって受け止められた、議会制民主主義の点で「進歩的」であった。本書がそのことに触れていないのは、残念。

 

(2)教育勅語

 これまた、左派・リベラルからは極めて評判が悪いテーマである。

 

 よくある批判としては、教育勅語は儒教思想に基づいているから前近代的である、大日本帝国の後進性を象徴するものである、というものがある。だが、井沢氏が指摘する、「夫婦相和し」は、男女の平等性を前提とするものであるから、寧ろ近代国家に相応しい。いかに画期的か、これはもっと意識されるべきである。

しかも、儒教では忠よりも孝を優先するところ、天皇と国民を疑似親子関係とすることで、忠を孝に優先でき、即ち、公を私に優先する建前ができたのである。

そして、教育が国家に有用な人材の育成に役立つことは勿論、国民自身のためにもなることを国家のメッセージとして発信したのである。

 

 このように、国民統合の観点では、教育勅語は非常に優れている。だからこそ、ナショナリズムに否定的な左派・リベラルから蛇蝎の如く嫌われるのだろう。

 

 

2 第2章「条約改正と日清戦争への道」について

 

 日清戦争は条約改正を成功させるために外相・陸奥宗光が始めた、と井沢元彦は言っている。確かに、日清戦争の勝利は日本を一等国の地位に押し上げ、関税自主権回復にも寄与したであろうが、日英通商航海条約の調印は日清開戦前であったし、議会承認のために戦争を始めるのはリスクと成果が見合っていない。

 井沢氏は、陸奥宗光からすれば、条約改正が成った以上、日清戦争に負けてもよいつもりであった、とすら書いてある。もし日本が清に敗れていれば、日英通商航海条約とて破棄されかねないわけで、この点については、井沢氏の論評には無理がある。

 

 また、大日本帝国憲法発布後、議会政治が始まったものの、議会対策で政府が苦労していたから、戦時体制にすれば議会対策も楽になるからと考えて陸奥が日清開戦を画策したとも書いてある。だが、陸奥自体は議会政治を推進する政治信条の持ち主であり、議会対策のために戦争を始めたとの見方は、奇をてらっただけではないか。

 

朝鮮半島情勢に対応した結果、朝鮮半島から清の影響力を排除すべく機先を制して開戦に至ったという、従来の見方の方が妥当であろう。

 

 

3 第三章「台湾および朝鮮統治」

 

 李氏朝鮮が朱子学国家であることの比喩として、「オール島津久光、鳥居耀三」という表現は非常に秀逸。これ以上にないくらい。

 

 なお、義和団事件において、駐清公使だったマクドナルドが初代駐日英国大使となり、在任中の1911年に日英同盟が結ばれている、と井沢氏は書いている。このことは嘘ではないが、1911年の日英同盟は第三次日英同盟である。寧ろ、彼は義和団事件後に駐日英国公使に転じたのだから、第一次日英同盟成立に奔走したことをしっかり書くべきではないか。