これまで、学校教育で伸ばすべき分野・注力すべき分野として、「生きる力」、「新学力観」のように、「新しい」概念が持ち出されてきたが、最近はアクティブ・ラーニングという言葉をよく見かける。

 大学受験における評価項目まで変えられそうな文脈的に、インプットとアウトプットを繰り返すという地道な勉強を否定し、教室での口頭のやり取りを重視する、上っ面な学習方法に過ぎず、結局何も身につかない馴れ合い授業になるのではないかと個人的に危惧していた。

 

 そんなアクティブ・ラーニングについて、1026日付の産経新聞オピニオン欄の「解答乱麻」において批判的に取り上げる石井昌浩氏の論説があった。アエラ、東洋経済、ダイヤモンドなどの雑誌は「これから大学入試はこう変わる!」といった主旨で無批判にアクティブ・ラーニングを取り上げていたが、伝統的な学力観にこそ意義を見出す立場からは、批判的に見ざるを得ない。

 まず、石井氏は、

 

 大方の人にとっては「アクティブ・ラーニングって何?」という程度のなじみの薄い言葉だが、これほど数多くの書籍が出回ると、教育の世界に何か新しい動きが始まったように思えてくる。

アクティブ・ラーニングは、能動的な学習、課題解決型学習として、これまでも実践されている。ことさら外国語に言い換えて、従来行われてきた授業を意図的に「受動的な学習」と印象づけるようなやり方を、私は疑問に思う

 平成30年度以降の学習指導要領改訂で、アクティブ・ラーニングが導入される流れに乗った動きだと思うが、私には二十数年前に嵐のように吹き荒れた「新学力観」の騒ぎと二重写しになってしまう。二十数年前に感じた同調圧力のような空気が広がりそうなのが気になる。

 

としている。下線部は私が付したものであるが、「ゆとり教育」が形を変えて復活してきたようなものではないかと危惧する。

まるでそれまでの教育が、教師による一方通行の授業で、児童・生徒は受動的であったものに過ぎないかのようであり、これまでの授業を否定して、上手く行くか分からない方法を都合よく押しつけ的に導入しようとしているかのようである。

 

当時、私は東京都立教育研究所に勤めていた。提唱された「新学力観」は、学力についての評価の観点を変えて、それまでの相対評価から絶対評価に移行し、児童・生徒の「関心、意欲、態度」を重視した評価に転換させた。教師が知識や技能を一方的に子供に教え込む従来型の授業と相対評価は、時代遅れの教育理念として批判された。その結果、教師は上から指導するのではなく教壇を降りて子供の目線に立ち、子供に寄り添うのが望ましい教師像とされた。

 時代の流れに置き去りにされないために教師が必死に学んだ「新学力観」だったが、3、4年たった頃には色あせてしまい話題に上ることもなかった。

 いま話題のアクティブ・ラーニングも、20年前の「新学力観」の「二の舞い」に終わるような気がしてならない。なぜなら美しい宣伝文句なのだが、教育現場の抱えている日常的な困難を引き受けようとする真摯(しんし)な目配りが足りないと思うからだ。

 

 学力を伸ばしたければ、生徒・児童が予め教科書を読み、理解が難しそうなところを教師が重点的に解説し、問題演習も併せて行うことで定着を図るという、地道な作業の繰り返しを守るのが確実であり、一部の天才肌以外には、この方法しかないのではないか。

 もしアクティブ・ラーニングを用いた課題解決力の向上を図る教育を施すとすれば、大学入試で東大・京大レベルのように教科・科目数の多い入試のために体系的に知識・解法を整理して身に付けた学力水準の高い層ではないか。整理された体系的な知識やその使い方が一通り身についていない者は、引き出しが少なすぎてアクティブ・ラーニングで双方向的に学ぶことができないのではないか。アクティブ・ラーニングはあくまで手法に過ぎず、それ自体には英数国理社のような体系的内容はないからである。

 

 何か凄そうなカタカナ言葉を唐突に持ち出して真っ当な学力向上のための伝統的方法を否定するのは、亡国の第一歩である。