今に伝わる室町の文化と人々のくらし | 6年担任のための歴史学習

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教科書だけでは分からない小学生のための歴史を解説しています。
もちろん、どなたでも閲覧ください。

 

 アクセス数が少しずつ増えて、読んでくださっている方がいるんだと思うと励みになります^^

現代まで頑張ってまとめていけたらと思います。フォローやコメントくださっている方もありがとうございます。

 

このブログは、教科書に載っていないことも書いています。なぜなら、流れとして、また日本人として抜かしてはダメだろうと思いうからです。万世一系のことはもちろん、天皇とは何ぞやということもあまり教えません。ここまでの学習の中では、白村江の戦いや刀伊の入寇のことは全く書かれていません。どこに気を遣っているのやら。

歴史を学習する意味は、もちろん自分の国のことを知ることが大事ですが、日本という国がどれだけ伝統のある国か。他国に誇れる文化があるかを学ぶことだと思います。何も知らなければ、日本を大事にしようとは思えませんね。

 

後、授業は発問が必要なのですが、まとめるのに必死で書けていませんでした。

発問はご自分で考えてください(^_^;)すみません。例)どうして〇〇は〜をしたのか考えよう。とかになりますかね。

 

 室町幕府が置かれた京都

 

 鎌倉幕府が滅亡し、、朝廷は討幕のために戦った者たちへ恩賞を与えましたが、実際に戦った武士には薄く、大した働きをしなかった公家に厚いものでした。京都の出先機関を滅ぼした足利尊氏も重要な役職に就けませんでした。朝廷のやり方に不満を持った尊氏は京都まで進軍しますが、敗れます。しかし、西日本各地の武将を味方に引き連れ、再度軍を進めました。尊氏は、勝利し天皇を降伏させると、違う天皇を即位させ、政治の実権を握りました。ここから、室町幕府が始まります。

 

 

 金閣と銀閣を調べる

 

 成立初期は政権基盤が弱かった室町幕府ですが、3代将軍足利義満の頃には、大きな権限をもつようになります。

義満の横暴ぶりは凄まじかったようです。公家の妻や側室を自身に差し出させたり、あろうことか天皇とが持っていた祭祀権や人事権などの諸権力を取り上げたりしたばかりか、自らが寺社などに参拝する際には、上皇と同じ冷遇をとらせました。また、次男の義嗣(よしつぐ)の成人の祝いを、宮中において立太子式(親王が皇太子になる式)と同じ形式で行っています。これは、前代未聞です。義満は、皇位を奪って、皇統を破壊しようとしていたのです。とうとう、こういう奴が現れてしまったのですね。

ところが、どっこい。義嗣の立太子式のわずか六日後、義満は突然発病し、その5日後に急死するのです。

誰かが、毒殺のでしょう。ふーーー。良かった。良かった。

 

 

 

 この頃、明との貿易をしますが、「倭寇」というものが現れました。

倭寇とは、中国や朝鮮の沿岸で略奪皇位を働いた海賊のことです。これは対馬や壱岐島、九州沿岸の漁民たちが、元や高麗に対する復讐のため始めたものと言われています。

 

 4代目の義持(義満の長男)までは、幕府も安定しちたのですが、それからは安定せず8代将軍義政(13歳)の頃には幕府は財政難と各地で一揆が頻発に起こりました。幼い義政はそれらを抑えることができず、次第に政治を疎むようになり、趣味の世界に明け暮れたようです。政治に無関心とも言える義政の姿勢が、後の「応仁の乱」を引き起こしたとも言えます。

ただ、義政は後世に「わび・さび」と言われる新たな美意識を有する『東山文化』を築きました。

 

 

 

 ここから、京都で10年以上も続く戦乱が起こります。「応仁の乱」です。この後、戦国時代になります。

戦いの時代になってしまいますね。

 

 応仁の乱はややこしいのですが、日本国紀によると

そもそもの始まりは、管領(室町幕府において将軍に次ぐ役職)を出す家柄の1つであった畠山氏の後継者争いでした。それに、将軍や別の管領家の後継者争いが絡んだからです。

義政には、男子がいなかったため弟の義視(よしみ)を後継者に指名します。ところが、翌年義政に男の子が誕生します。義政の妻は、産んだ子を将軍にしようと考え、有力守護大名の山名宗全に後ろ盾になってもらいます。一方の、義視は管領だった細川勝元を頼ります。このことから、山名と細川が争うようになります。 (途中で、補佐する者が反対に入れ替わるそうですが、、、)二人の戦いは、やがて他の有力大名たちを巻き込んで、全国的な戦いとなります。争いが始まって、7年目に二人とも相次いで亡くなりますが、乱は終わりませんでした。結局、乱は11年続いた後、収束していきます。何も決着がつかずでした。。。

 

 この頃、琉球国が生まれています。現在の沖縄の人々の祖先は九州から移住してきた人たちだと考えられています。沖縄の正史では、源為朝(頼朝の叔父)が沖縄にのがれてきて、その子が琉球国の始祖になったとあります。

 

中国がまた、頓珍漢なことを言っていますが、しっかり対抗して守っていかないといけませんね。