武士による政治のはじまり | 6年担任のための歴史学習

6年担任のための歴史学習

教科書だけでは分からない小学生のための歴史を解説しています。
もちろん、どなたでも閲覧ください。

 

武士の時代が始まります。

 武士の登場

 武士は、国司(昔、朝廷から諸国に赴任させた地方官)が地元のリーダーとなったもの。

藤原氏が我が世の春を謳歌している中、地方の政治は乱れていました。独自の支配体制を築くものもいました。

平安時代は、遣唐使の停止があり、国際関係にはあまり目を向けていませんでした。かつて、九州地方に朝鮮半島や中国からの侵略に備えていた防人制度も実質的には無くなっていました。国の安全保障を忘れた一種の平和ボケの時代でした。

 

 しかし、平安時代になった頃から朝鮮半島の新羅からの数十回の侵略行為にしばしば悩まされていました。その規模も大きく、長崎の五島列島に上陸し、島民百名を連れ去ったり、九州全域を襲い、多くの民家が焼かれ、男女300名が捕われました。日本は、その度に一時的に取り繕うのみで、防備を強化することはありませんでした。また、抗議や報復行為も行わなかったため、度重なる侵略行為を招いたとも言えます。

 

 その結果、「刀伊の入寇」という大事件が起きます。(寇は外国から攻めてくるという意味)

それまでの新羅や高麗によるものとは違い、女真族による規模が段違いな侵略行為です。女真族は、現在のロシアの沿海地方に住む狩猟民族で、後に中国の宋を脅かし金という国を建て、さらに明を滅ぼして清を建てました。かなり強いですね。

 

 女真族は、50隻の船に三千人の男を乗せ、対馬(36人が殺され、346人が捕われる)、壱岐(いき)(149人が殺され、女性239人が捕われる)、筑前、肥前などを襲いました。夥しい家畜が殺さました。全体では、300人以上が殺され、1200人以上が囚われました。

 

 この危険に立ち向かったのは、藤原道長の甥である藤原隆家でした。

隆家は叔父との折り合いが悪かったため、若い頃に左遷され、出世とは程遠いところにいました。この隆家が、九州の武士団を率いて、自ら前線に立ち、女真族を撃退したのです。

都に刀伊の入寇の知らせが届いたのは、撃退した後でした。しかし、当初、恩賞は与えられなかったようです。(後になって与えられたが)命懸けで、人命と領土を守ったのに、ひどいですね。いかに、朝廷が国防について認識が低かったかが分かります。飛鳥時代の政府が、防人制度を作ったり、太宰府に水城(みずき)を築いたりしたのに、300年平和が続くと平和ボケに陥ってしまうのですね。

 

 

 源氏と平氏の戦いと鎌倉幕府

 

 ここで、大きな権力闘争が起きます。

 藤原氏が娘を天皇の妃とし、権力を持つようになると、藤原氏の力を削ぐために院生が行われました。上皇が天皇よりも同等の存在、または上回る権威をもつ存在と見做されるようになるのです。33歳の白河天皇はそれを利用して、8歳の堀河天皇に譲位し、政治の権力を握るようになりました。そのため、これ以降朝廷内でしばしば争いが起きました。「上皇側」と「天皇側」による権力闘争の最も大きいものが「保元の乱」です。

これは、崇徳上皇と後白河天皇(崇徳上皇の大甥)の争いです。ここに武士が関わります。崇徳上皇側に藤原頼長、源為義、為朝(父子)、平忠正。後白河上皇側に、藤原忠道、源義朝、平清盛。

藤原同士は兄弟、源氏同士は親子、平氏同士は叔父と甥という肉親による争いでした。

 

 「保元の乱」で勝利したのは、後白河天皇でした。後白河天皇は、荘園に手をつけていきます。

以前から、有力貴族や寺社は私有地である荘園をどんどん増やし、国の税収は減っていました。そこで、後白河天皇は荘園の私有権の制限を行います。この改革を立案した藤原通憲(みちのり)は、地主の反発や抵抗を抑え、都の治安を維持するために、大きな兵力をもつ平清盛の力を借ります。これにより、藤原氏と平氏は共に勢力を拡大していきます。

 

 実力者の美福門院(鳥羽法皇の皇后)は、藤原通憲に働きかけて、後白河天皇を退位させて、自分が育てた二条天皇に譲位させます。不満を抱いた後白河天皇は、藤原信頼を抜擢し、大出世させます。そして、信頼は通憲と対立し、源義朝と結びつき、クーデターを起こします。源義朝は御所を占拠し、後白河上皇と二条天皇を幽閉(部屋に閉じ込める)し、通憲を自害に追い込みます。源義朝は、保元の乱では平清盛と共に後白河上皇を助けましたが、今回は上皇捕らえる側となりました。その謀反(君主に背いて兵を出すこと)に平清盛は、二条天皇を救い出し、頼朝と義朝を攻め込みました。

 

(平清盛)

 

(源頼朝)

 

 この事件によって、武士の力は一気に増していきました。これが「平治の乱」です。

ところで、平清盛は源義朝を死に追いやりましたが、その子供の命は取りませんでした。清盛の継母が愛らしい頼朝(13歳)を見て、亡くした息子を思い出し、助命嘆願します。清盛は、仕方なくそれを受け入れ、頼朝を伊豆に流しました。義経(1歳)をも殺そうとしますが、その母を自分の妾にすることで、義経を鞍馬寺に預けました。これは、海外ではあり得ないことです。将来、力を持つかもしれない一族は滅亡させるのが当たり前だからです。

後に、平氏は源頼朝の命を受けた源義経に滅ぼされます。あららですね。

 

(源義経)

 

 日本史上、初めて武家として権力を握った平氏でしたが、全国の武士たちが反発します。筆頭となったのが、源氏でした。

壇ノ浦の戦いで、ついに平氏は滅亡します。

この時の、源氏の旗印が白地に赤丸でした。日本国旗「日の丸」のルーツと言われています。

 

 

 源頼朝が鎌倉に幕府を開く

 

 ここから鎌倉幕府が始まります。平氏との争いに勝った源氏が政治の実権を握ります

政治の実権を握ると言っても、朝廷から任命されています。武士による政権が生まれたことは、日本にとって幸運なことでした。最恐な敵が襲ってくるのです。。。

 

 

 元との戦い

 

 源氏は3代で途絶えてしまします。その代わりに、北条氏が実権を握ります。

この頃、世界で恐ろしいことが起こっていました。モンゴル人による世界征服です。

チンギス・ハーンによるモンゴル人が、近隣の諸民族を次々に吸収していきました。その戦闘能力は圧倒的で、モンゴル人の攻撃を受けた国や民族はことごとく滅ぼされ、服従を強いられました。モンゴル人は、金や西夏といった遊牧民族の国を滅ぼすと、高麗、インド、ロシア、アフガニスタン、ペルシャを従わせ、ユーラシア大陸のほとんどを支配する大帝国を築きます。

また、ドイツ、ポーランド連合軍を撃破し、ヨーロッパの国々をパニックに陥れました。この時、2代目皇帝の死去により侵攻が止まります。これがなければ、ヨーロッパも滅ぼされていたかもしれませんね。

 

 中国大陸を支配した元帝国の初代皇帝フビライ・ハーンは日本を服従させようとします。武力弾圧を仄めかした国書を日本に送ってきたのです。

この国難に際し、鎌倉武士団の団結を高めるため、北条家の分家は一つになり、執権に時宗を立てました。時宗は16歳でした。当時、外交の権限を持っていた朝廷は、蒙古からの国書に返書をしていましたが、北条時宗は無礼な手紙に返事をする必要はないと朝廷に伝えました。

 

 

 時宗は、日本を守るために、九州の御家人たちに防御態勢をとれと命じ、襲来に備えていました。

最初の国書が送られて来てから、6年後フビライはついにやってきました。蒙古軍は700〜900隻の軍船に、4万人の兵士を乗せて襲ってきました。(蒙古人2万人、服従されていた高麗人1万人、他水夫1万人)蒙古軍は、対馬・壱岐島を襲い、多くの島民を虐殺しました。捕虜とした女性の掌に穴を空けて、縄を通して船に吊り下げていたそうです。残酷ですね、、、

我らに歯向かったら、こうなるぞと見せているのですね。

九州の御家人たちは、命懸けで戦い、敵軍にかなりの損害を与えます。威力偵察であったという説もありますが、2週間ほどで、軍船は一斉に引き上げます。日本軍の予想を超える攻撃で大きな損害を被ったとためとも考えられています。

 

 鎌倉幕府は、蒙古を撃退しましたが、決して油断しませんでした。3年後、蒙古は再度、日本侵攻のためやってきます。しかも、一気に日本全土の制圧を狙った大軍勢でした。怖いーーーーーーー😱

約4400隻という艦隊がやってきました。世界史上最大規模でした。兵士・水夫は約14万人と、以前の3倍です。対馬を襲った後、博多湾上陸を試みましたが、20キロにわたる防塁と九州武士団の激しい抵抗にあい、上陸を許しませんでした。

また、志賀島を占拠し、軍船の停泊地とすると、日本軍は夜襲をかけて蒙古軍を脅かします。さらに、総攻撃し、蒙古軍を打ち破りました。壱岐島でも、蒙古軍の3分の1の数で総攻撃し、蒙古軍は撤退します。太宰府攻撃に備えて、鷹島沖(長崎県)で停泊していた蒙古軍ですが、日本軍が夜に攻撃を仕掛け、蒙古軍の船に乗り込み、接近戦闘を挑みました。日本軍の再度の襲来に怯えた蒙古軍は海岸に軍船で土塁を築きます。その数日後、超大型台風が襲い、軍船の多くが沈殿しました。軍船の大半を失った蒙古軍の将軍たちは、多くの兵を置き去りにして撤退しました。残された蒙古軍を日本軍が皆殺しにし、南宋人は捕虜にしました。日本は、最恐のモンゴル人に勝ったのです。時宗は、3年後の32歳で亡くなりました。日本の英雄です。

 

 

 元との戦いのあと

 

 蒙古と戦った鎌倉幕府の御家人は甚大な犠牲を払いました。しかし、この戦いは防衛戦であったため、日本側が得たものはなく、幕府は御家人に十分な恩賞を与えることができませんでした。

一方、中央では北条氏が権力を独占していたため、多くの武士の間に不満が蓄積しました。こうした社会情勢から、治安が乱れ、西日本の各地で経済力を持った振興武士が現れ、支配に反発するようになります。

河内国(大阪)の楠木正成(まさしげ)が挙兵しました。鎌倉幕府は、正成と追討するため10万の大軍を送ります。正成はわずか千人の軍勢で千早城という小さな山城に籠って、これを迎え撃ちます。ところが、正成は戦の天才で、山岳ゲリラ戦を得意としました。どれだけ攻めても千早城を落とすことはできませんでした。幕府は、援軍として御家人の足利尊氏を派遣しましたが、尊氏は幕府を裏切り、幕府の出先機関を攻め落とします。

同じ頃、上野国新田荘(群馬)の御家人、新田義貞に千早城を攻めるための高額の戦費を要求しましたが、これに応じませんでした。幕府は義貞追討令を出しますが、逆にやられてしまします。ここで、鎌倉幕府は幕を閉じました。

 

ふーーーーーー。何だか、鎌倉時代は、大変な時でしたね。モンゴル人に勝てて良かった。この時戦ってくれていた先人がいたからこそ、今の日本があるわけですね。いやあ、恐ろしかった。

しかし、日本を守った鎌倉幕府があっけなく終わってしまったのは、残念ですが、戦っても恩賞がないと生きていけませんものね。