今日、おばあちゃんが亡くなった。
食事を受け付けなくなったからと、施設の人に伝えられていたため、午前中に面会に会いに行った。
その後、一人の時間に息を引き取ったようだ。
おばあちゃんは病院嫌いで、若い頃からずっと体調を崩したら、マムシの焼酎漬けで何でも直してきた人だった。
私が、自然暮らしをしていた時には、おばあちゃんの話をよく聞いて、色々と昔の人の仕事を教えてもらった。
それから、数年、私はDV状態を受け入れてしまっていて、認知の歪みの中で、精神的にもバランスをとっていくのが難しくなってから、
自分の中にある、無知だった状態を知ることになり、家族に対する反抗期を迎えていた。
おばあちゃんが、歳になってから無意識的に使っていた、、、
「私は目が見えて、耳も聞こえて、手も足も自分で思うように動かせるから幸せだ。」
それ、自分でその健康状態を作ってきた努力だから、喜ばしいことなんだろうけど、、、
ものすごく人を比較していたり、誰かと比べて自分が優れているような感覚でいるような発言に捉えるようになり嫌悪感を抱くようになっていった。
あまり、積極的に会いに行かずに、今日も本当は会いに行きたいという思いからではなかった。
みんなが行くから、いっておこう的な、表面上の行為だった。
でも、母から亡くなった電話がかかってきた時、しばらくの間、涙が止まらなかった。
ここ数日の自分の行動が、おばあちゃんが好きだったものを無意識的に集めていたことに気づいた。
昨日は、野草王子が地元に来てくれ、山野草をみんなで見て回った。
王子の解説の中、名前を知らない植物たちの名前を聞いて、その植物の紹介を受ける度に、その植物たちが知っているものに代わり、自分の周りを囲んでくれる愛らしい存在たちに変化していった。
小さな花たちがとても可愛らしくて、紅葉の美しさ、自然の中にいることがとても心地良かった。
小さな植物に向き合っていた自分が、おばあちゃんの魂と一緒だった気がしてならない。
生前に良く、「私は花が好きだから」と沢山の花を畑に作っていた。
そんなおばあちゃんの行動を思い出した。
そして、なぜか父が大量に買ってきたほうれん草!!
何十年も自家採取してきた在来種のほうれん草をよく茹でて食べていた。
土に近いところの部分がとても甘いから好きだと言っていた。
先週、おばあちゃんの家で大量に取れた柿を、母と一生懸命、干し柿にした。
少し早いけれど、さっき娘と食べてみた。
干し柿ってこんなに甘くて美味しいものだったんだなって思った。
おばあちゃんが毎年作る干し柿に文句を言っていた自分が懐かしかった。
私が食べているけれど、おばあちゃんの魂はきっと今一緒なんだろうって感じるよ。
買ってきたほうれん草が甘く無いって感じたり、干し柿が美味しいと感じる私がいる。
さっきまでリアルな感覚がなかったから、、きっともう統合しているのかもね。
そんなことを思いながら、明日は御嶽山に登りたくなったよ。
生前、60歳くらいまでは、毎年御嶽山に登っていたおばあちゃん。
きっと健常な身体づくりの源のエネルギーは、この登山にもあるのだろうね。
何故だかおばあちゃんの好きだったことがやりたくなる。
私にとって、死というものは、物質界での身体というものがなくなるだけのもの。
身体というものから解放されたおばあちゃんの魂と一緒に御嶽山へ、、、
娘に一緒に行く?と尋ねたが今回はいいとの事。
さあ、明日はおばあちゃんと一緒に行ってこようかな。