先日、見たいと思っていた「夢見る小学校」を見に行ってきた。
昔、娘の選択肢の中の候補だった「きのくに学園」が出てきていた。先生も生徒も本当に自分のやりたいことを存分に追求できていて、自由の中で、自己肯定感がしっかりと育ち、探究的な学びの中で、どんどんと可能性を広げることができているなと感じた。
印象的だったのは、映画の中に出てきている女の子が発達障がいと言われ服薬を余儀なくされ、自分を抑えることで学校に適応させられていた子が、この学校に入る条件として「服薬をしないこと」を校長先生にお願いされる。服薬でおとなしくなっている彼女ではなく、本来の彼女の姿で来てほしいと望んだ為である。彼女は「初めて自分らしくいられると感じた」と語っていた。
発達障害は画一的な教育が作り出したのではないか、という指摘も映画ではあり、本当にそうだと思う。
障がいではなく、脳の個性、その個性を受け入れられない不自由な大人たちが作り出した病名のように感じる。
昔、画一的な教育に疑問を持ち、学校を批判していた自分に嫌気がさした。文句ばかり言っている場合ではないと思い、学校の現場を実際に見てみようと、学校の支援員をやりながら小学校の教員免許を通信でとった。
翌年から小学校の通級指導教室の担任を2年間勤めた。
ことばの教室の先生として、発達障がいの子どもたちの支援に取り組んできた。その中には、過去に薬を服薬していた子もいた。そして、同じように学校で手に負えない子どもたちは、病院を勧められて、医師が処方する薬を飲んでいる子たちもいた。
自分の中の心に違和感がずっとあり、環境の整備で変わる気がして、周りの人に伝えても、ずっと学校で働いてきた人たちにとっての普通が強過ぎて、自分の中の不自然に思う感情を誰にも理解してもらえなかった。だんだん不自然に思う心にも鈍感になっていった。
違和感を感じているのに気がつかずにいる不快感を抱えたままの自分に限界が来て、退職した。
退職を決める数ヶ月前から、ヨガを始めた。ヨガをしていると少しずつ自分の心の変化に気づいていくようになった。
学校や社会を責めてしまう心は、自分自身が作っているのだとわかるようになった。
要は、物事の捉え方が変わってきたのである。
誰かが悪いのではなく、自分自身の心のバランスが崩れてしまっていたのである。
そこから、石垣に行って、ヨガのティーチャーズライセンスのコースを受けた。
ヨガのアーサナはバランスをとることを教えてくれた。
心と身体と意識は全て繋がっているのだなと自分の身体を通して実感できる。
身体が固ければ、心が凝り固まっている状態、思考がガチガチになってしまっている状態と同じであること。
あんなに固かった身体が、アーサナを続けていくとだんだん柔らかくなってきた。同じように凝り固まった思考もほぐれてきた。
全然できなくて、難しいと思っていたポーズも、できるようになると、今まで、パニックを起こしていたような状況にも冷静に対処できるようになった。そして、難しいと思っていた料理のレシピも難なくこなせるようになってきた。
本当に、思考と、身体と心の繋がりに気づく。
ヨガは、ポーズの追求ではなく、ありのままの自分を観察していくことで、最終的な目的は「心の作用の死滅」である。自分の心が暴走しないように手綱をとり、感情をコントロールすることを目的としている。
本当に哲学を学び、体現しているのだと感じる。
良いこと悪いこと、全ては二元性の中の問題に過ぎないのだということ。
心の靄を拭い去った後に、見えてくる世界が真実なんだとわかる。
学校問題も、今ここで公立の学校がすぐに変わることができるかというと、時間はかかると思う。
しかしながら、映画のような最高に素敵な場所は「きのくに学園」だけではなく、今ここから自分次第でどうにでも変化できるということも考えて欲しいと思う。
もう学校に依存する必要なんてないと思う。
娘は公立の中学校に言っているが、もはやコミュニケーションスキルを学びに行っているようなものかなと思っている。
たまに、疲れた日は休んで、家で、やりたいことを何時間でもぶっ通しでやっている。夢中になれる時間を体験させると、自分自身での学びの結果を報告してくれる。
きのくに学園がやっている探究的な学びは、学校でなくても、家でだってできるし、子どもが夢中になってやっていることを大人が止めないことだと思う。
そして、子育てに絶対必要なものは、自然と共にあること。
これを体感していれば、自然からの学びはそのまま私たちの生き方の根底に繋がっていることがわかるからだ。
