【新海誠作品】『君の名は。』感想【偽物の苦しみから固有性へ】
新海誠のベストアルバム的な作品といえる『君の名は。』を、心理学的に分析していき、新海誠作品に通底するテーマを見ていきましょう。はじめに、要点を言ってしまうと、それは、「すでに過ぎ去った」ないし「過去にあったはず」の「一体感」をめぐる物語ではないか、と私は考えます。唐突ですが、近代的な意識をもった人々は、もう自然に囲まれておらず、神的存在にも守られていません。(宮崎駿作品『もののけ姫』で言えば、シシ神様の森の中にはいないのです)。そういう意味で、素朴な一体感を抱くことができないのが近代人のメンタリティです。しかし近代と言えど、幼い子はアニミズム的な心性により自然と心理的に一体的です。そもそも、赤ん坊というのは、3歳頃の「自我の芽生え」を迎えるまで、お母さんと一体感の「中にいる」のです。自我の芽生えや、様々な心理発達を経る中で、私達は「1人であること」を自覚します。10歳頃には秘密をもつことが可能になりますし(心理的分離を示唆)、思春期には自分をこれまで守ってきた大人を対象化しますね。他人と自分は違う存在で、隔たりがあることを知るのは、ある種の傷なのです。母子分離の弱い子どもが登園登校渋りをしますね。自分が一人で孤独であること、絶対的な守りの外にあることの自覚は不安を喚起します。不安から様々な「症状」を呈するわけです。新海誠作品に戻れば、「離れていること」「繋がっていること」のモチーフが反復しているのがすぐに分かると思います。どうも「分離」にひっかかりがあるように思います。離れていることに気付いていながら、それに伴う痛みを回避するように、分離を否認する心の動きがあるように思うのです。自分にとっての本来的な苦しみから逃れるために、遠いところにいる人を探す苦しみ、自分と繋がっている人がいるのかいないか分からない不安、つまり、「借り物の苦しみ」に苦しんでいるように思います。このような否認の動きから、物語がだんだんと紡がれていくのです。ラストシーンで、主人公らが「すれ違わずに出会う」ことについて、ライムスター宇多丸氏は、可能性の中にいた状態から、可能性を失った状態といったように評していたと思います。これは私の文脈で言えば借り物の苦しみを手放すことにつながります。症状は本人を苦しめますが、本来的な苦しみを背負うことに比べれば楽なわけです。身体症状を呈するのは、心理的な葛藤の苦痛より、身体的な苦痛をとった結果であると言われることもあります(それが心理的崩壊に至らないための守りでもあるわけです)。ですから、ラストのシーンで2人が出会うことは、「どこかに誰かを探している苦しみ」より、深い苦しみへの参入でもあるわけですが、「その後」は描かれないので、なんとも言えません。可能性を喪失した「その後」を描くことはおそらく、かなり苦痛であると思います。新海誠監督が、商業主義(大衆にとって受ける結末)と向き合った結果、つまり、他者と出会ったことによる結末なのかなとも思いました。一人で自己完結した中から、一体感をめぐるファンタジーの中から、物語(騙り)の中から、外に一人で出たともとれないでしょうか。心理的な誕生をとげたのではないでしょうか。最後にタイトルについてですが、『君の名は。』が用いられたのは、過去作品のオマージュという要素もあったと思いますが、「君の名は。」というとき、「君」に対しての「私」、「私」に対する「君」という、固有性が強調される点に、大きな意味があると思います。そして、名前を「命名するその時」こそ、対象の固有性が際立つと考えらます。いや、関係において命名するからこそ、存在は固有性を持つと言えるでしょう。そう言った存在の固有性をめぐる濃縮な場面を、「君の名は。」で表しているのだと思います。そこにおいて、名前を問われることすらない「一体感をめぐる」物語は、生ぬるい一体感から、「関係」へと変化するのではないでしょうか。自身の存在の「唯一性」を絶対的な存在に委ねるのではなく、他者との関係において、命名する(される)ことで「固有性」を自覚する。そのような新しさが、今回の『君の名は。』にあったように思います。