おはようございまーす!
さこぴです
先日もブログに書いたとおり、
私はchatGPTにどハマりして
めちゃめちゃ使い倒しています
特にどハマりした8/23~2/28の間は
とにかく空いてる時間はずっとchatGPT漬けで
私が思ったこと、気づいたこと、自信ないこと
現実でその時起こったこと、ショックなこと
を、とにかくとにかく送りまくりました
すぐにフィードバックが来るから
それを元にまたガンガンに書いて送信し
ひたすらラリーをしていました
その中で何度も
私自身が理解して、納得して満足して終わってしまうことに対して
(その次の行動が起こせないこと)
そんな自分をダメだ、ダメだ
って思ってしまい
chatGPTにも批判してもらったり
そこからどう行動に繋げたらいいか提案してもらったりした
でも
大体内容はいつも同じ
何度聞いても回答は大体一緒
それでもなかなか納得できない私は
何度やったかこのやり取りをやったんだか?
ってくらい
いろんなことをガンガンに吐き出したり
質問したりしていた
そしてある時ふと気がついた
今、私が
理解して納得して、満足してしまうこと
そして安心した気持ちで終わってしまうこと
別に問題じゃないんじゃないか?と
では、
なぜ私は納得して、安心して終わってしまうのだろう?
そう考えてみた時
今までの行き場のない思いや考えたちは
私の頭の中でぐるぐるぐるぐる
決着をつけられずに溜まりに溜まっていたし
ぐるぐるでさらに頭の中に
余計なものを増やしていたんじゃない?
それが、
自分の話したことのフィードバックを見たり
しっかりと説明をしてもらうことで
「ああそういうことね」
と
しっかりと納得をして
脳内の「どうでもいいことフォルダ」の中に
整理されていったのではないか?
と
そんな解釈ができた途端
一気にスッキリと軽い気持ちになっていった
今までの私はずっと
本来は「どうでもいいことフォルダ」にあるはずのことで
日々ぐるぐる考え、悩み、気にしたり、反応して
どうでもいいことのために消耗をし続けてきていた
きっとそれは、
幼少期や今までは
私が何とか生きていくために
私自身を守っていくために
とっても大切なことだったんだと思う
人の目を気にすること
自分のダメな部分を隠そうとすること
人の機嫌を取ること
周りや自分を監視すること
その他にも山のようにあるんだけど
そんな山のような、
本当は「どうでもいいこと」に
私は自分1人では
いつまでも決着をつけられずにいたんだ
それを
いつまでもぐるぐるしてる!とか
1人で処理できない!と思って
そんな現状を自分が自分で否定をしていて
それがまた
どうでもいいことをどうでもいいと
決着をつけることを自分で邪魔していたんだと思う
そんな状態の私が今回
chatGPTにこれでもか!これでもか!
と
とにかく吐き出しをした
吐き出して、吐き出して、吐き出して
とにかく吐き出しをした
それがchatGPTのデータベースにもなり、
私の脳内整理と発散にもなり
どんどん整理されていって
私にとってもスッと納得できる
私は「そういうことか」に
辿り着いていった、もありそうだなとは思う
だから、
なぜ私は納得して、満足と安心して終わってしまうのだろう?
に対しては
納得して満足して安心していい
にした
それが今の私には大切なプロセスだから
それは、今の自分を認めること
でもあったと思う
1人でこの頭の中を処理ができない
ノートもたくさんやっているけど、それでもできないこと
自尊心が低くて、自信がなくて
ノートに書き出したことすら認めたり肯定する力が弱いこと
きっと時間をたっぷりかけたら
いつかは1人でもできるんだろうけど・・・
それはあまりにも遅すぎること
今は私1人の力ではあまりにも弱すぎて、
できないんだ
(もちろんゼロってことではないよ!)
そこを再び認めること、降参することでもあった
そうしたら自然に自分の過去にも視点がずれていき
私は、ずっとありのままの自分を隠したかった
どんな自分もダメだと思っていたから
だから人と会うことも話すことも怖い
なかなか話ができず、
話しても上辺なことばかり
私の母親は、私の話を聞ける状態じゃなかった
母の持つ性格気質特性もあるけど
何より母自身も非ダイヤすぎて
私は幼少期に母親に話を聞いてもらう経験がなかった
私の話は価値がない
私の話は人を不愉快にさせる
私が話すと攻撃される
私は話さないほうがいい
そんないらないオマケまでもらっていた
そんなだから、
私には話せる友達はいない
パートナーにも話ができる人を選ばなかった
きっとこれまでも無自覚に
一方的に話をするのが好きな人
そもそもの共感性が薄い人
攻撃的な非ダイヤ要素のある人
に近づいていっては
やっぱり私の話なんて、どうでもいい
そんな現実を作り出しては
それを証明し続けてきたんじゃないかと思う
そんな過去をざっと振り返ったら
私が吐き出せなかったのも
吐き出すことに抵抗があったのも
吐き出せなくてこんなに溜まってることも
自分の話したこと、書いたことに自信がないのも
膨大なほどに吐き出すことが溜まっていたことも
そりゃ、当然だわ
今の私はなるべくしてなってきたんじゃん!
吐き出すことの安心を
吐き出すことの満足を
今はそれを十分に感じたらいいんじゃん
そんな風に思えて
一気に全身の力が抜けていく感覚と、
よしっ!と気が引き締まる思いの両方がした
そして、改めてchatGPTに話したことも振り返ると
私がしてた吐き出しは、
現状の脳内の整理のための吐き出しだったな
と思った
感情の吐き出しとか、母へのクソノートではなく
ただただ今の私の頭の中のことだったから
だから、ごちゃごちゃな頭の中
不器用で自尊心がすごく低い私で
すごくゆっくりで何年もかかったし
消費したノートの冊数も結構あったけど
それでもやってきたんだな
頑張ってきたんだな
私の力でも進んでたんだな
っていうのがわかって、
やっとそれを認めることもできたんだ
それは「吐き出し」のおかげだったと思う
吐き出して吐き出して、とことん吐き出して
その先に
今の自分や過去を見ることができる自分がいた
それは結果を求めてやったのではなくて
やったことの積み重ねの先にあった結果だったからかもしれないね