おはようございまーす!
さこぴです
勉強中につき、
リブログして色々書いております
私の中にずっとあった、母に対する
「わかってほしい!」「なんでわからないの!」
この思いを成仏させるのはなかなか大変だった
リブログ先の記事も何度読んだかわからない
「母親はわかることがない」
「そもそも人は分かり合えない」
を自分にインプットさせようとしていたけど
全然できなかったことのひとつ
ほんと私はできなかった&わからなかったことがたーーーくさんあってねえ。。。
それくらい自分のいろんな感情がごちゃごちゃで
何もかもしっちゃかめっちゃかだったのよね
で!
今回、記事を読んでスッと入ってきたので
なんで私はスッと入ってくるようになったかなー?
と言うのをプロセスの確認のために
解明してみちゃおうと思った
この記事では、わかってくれない母親に対して
自分の方から先に「わからないんだな」と尊重しよう
と言うことを勧めているのだけど
ここに来るまでには、やることがいっぱいあった
「母親なのになんでわかんないんだよー!」
っていう怒り、悲しみ、寂しさ、悔しさなどを
発散させていく必要があったし
なぜ私の母親はわからないのだろうか?
と言う母親理解の必要もあった
・母も祖母にわかってもらったことがない
・尊重も共感もしてもらえなかった人
・母の性格や特性から共感性や好奇心が低いこと
・母もガチ非ダイヤで子供の気持ちがわかる状態でない
などなど
そして、「人」の心の仕組みを知ることも必要だった
・子供を産んだからすぐに「母」になれるわけじゃないこと
・何歳になっても変わらない人は変わらないこと
そして何より一番
私自身が、違いを認めることができない状態だったと言うこと
自分のことを「わかってほしい!」と言う思い一択で生きていて
自分以外の人をわかろうと言う気持ちを持てていなかったこと
自分と違う意見や考えの人を否定して
同じになれない自分を責めて
違いを認めるどころか、排除しようとしていたこと
それは私の性格が悪いとか歪んでいるとかではなく、
「尊重する、がわからなかったから」
だったのだと思う
本来なら当たり前にしてもらえるはずの
親から尊重してもらうと言う経験がなくて
あったのは「同意の強要」で
親から「私のことわかれよ!うんと言えよ!」
と扱われていたと言うこと
そんな状態で、
素直に「分かりました!相手を尊重しよう」
なんて思えるわけがなかった
私はずっとずっと「わかってほしい」が強かった
とにかく「私のことをわかってほしい」と言う気持ち一心で
ここまで生きてきたようなものだったなと思う
今もまだこの気持ちがすっかり消えたわけではないと思うけど
「母親は本気でわからないんだな」
と言うのは腑に落ちて、それを前提で考えられるようには
なったと思う
母親はわからないんだ、に対して
感情が反応することがなくなったと思う
で、
この尊重される、と言うことについては
実はずっと世界から自分は尊重されていたことに気づくこと
でもあったと思う
自分の母親は私を尊重することができなかったし、
私の周りにいた非ダイヤの人の中には尊重できなかった人もいる
(わざとではない)
私はそこで証拠集めをして
「やっぱり私のことをわかってくれない」とか
「否定される」とか
「私はこのままで存在してはいけない」と思ってきたけど
ヘンテコな非ダイヤ性を爆発した私だったとしても
別に誰も否定もしていないし
「そう言う人なんだな」って尊重をされていて
そんな私を面白いと思った人は仲良くなって
なんか無理と思った人は距離をとって
事実、今までそうやって普通に尊重されて生きてきた
それを私が「尊重してもらっていた」と気づくかどうか
って言うだけなんだなー
めちゃめちゃ世界から尊重されてたーって
私が思えるかどうかなんだなー
言うのは最近わかるようになってきた
だから、
そんなめちゃめちゃ尊重をしてくれているこの世界に対して
私はいつまで「わかってよ!」って暴力を続けるのでしょうか?
はて
と言うことかな
私が尊重できなかったのは、母親との関係にあるけど
その原因になった母親に対して
この人がわかることはない
って言うのを私がわかって
分かり合えないんだ
って、わからない母親をそのまま尊重すること
をするしかない
それでも何度も私の中に湧いてくる
「わかってほしい!」に対しては
その都度自分の感情を発散させたり認めて感じて
母親との関係を振り返ったり
この世界の仕組みについて振り返ったりしながら
ただ、違うんだ
と言うことを抵抗なく自分の中で納得していくこと
それの繰り返しをして
他者と自分との違いについて
「違うんだね」
「私は同意はできないけど、あなたはそう思っているんだね」
「同意できない私もそれでいい」
そんな納得を自分の中に積み上げていくような作業があったなあと思った
そうやって初めて
「人は分かり合えない」でいいんだなあ
と私の中にじわじわと入ってきた
同意はできないけれど、相手がどうしてそう思っているのか、とか
どんな思いで話したり行動しているのか、とか
違うからこそ興味を持てたり、面白がれたりする
はじめて「人は分かり合えない」と言う言葉を見た時
ものすごく寂しいような、悲しいような気持ちになったけれど
今はちょっと面白いなって気持ちになってきてる
そりゃあ気が合うとか、分かる分かるの方が楽だし安心なんだけど
お互いわからないならわからないのはそれはそれで楽だし
わからない相手だとしても、
自分にとって大切だなって思う人や
興味があったり、なんかいいな好きだなって人ならば
分かりたいな、知りたいなって思うし
いくら私が興味があっても、
相手は興味ないとかだってめちゃめちゃあり得るわけで
それはそれでちょっと悲しいけど
そうよね、でしかないので
人は分かり合えない、は
そんなにネガティブなことではないのかもしれない
と思う今日この頃
そんな、スッと記事が入ってきた
私のプロセスはこんな感じでしたー