↑今年の七夕に、長男が学校で書いた短冊
固有名詞と数字が入っている!
4月から初めて、フォロワーが400人を越したんだって
それを見て刺激されたのか、偶然か
次男もYouTube動画を作るのにハマり出しました
iPhoneの録画機能でゲームしているところを録画して
ショート動画にしてアップ
(元々長男が使っていたチャンネルをお下がり)
2人とも楽しそうにやっております
ついつい、音声入れてみたら?とか編集してみたら?
って言いたくなるのをグッと堪えて
何も言わないで見ています
ほんと私、何様だわ
自分だってもしもこのブログについて
こう書いてみたら?これ書いてみたら?
なんて頼んでもいないのに言われたらムカつくのにね
気がつくと余計なことが自然に生成される
それが会話だと思ってしまっている
実際、子どもの頃はそれが会話だった
会話って私が発した言葉に親があれやこれや言って
私が反発しては怒られて嫌な気分になるもの
私が話をすると、誰かを傷つける
私の話は、相手を嫌な気持ちにさせる
そう思い込んだし
相手の言葉に対して、評価するものでしか知らないから
「⚪︎⚪︎なんだよー」って言葉に
「⚪︎⚪︎なんだね」「そうなんだね」で返せばいいところを
私は「すごいね」「いいね」「何で?」みたいにそのまま返さないんだな
と自分から出る言葉に対して何だか疑問を感じていた
これも会話ってそういうものだと思って
私がそのまんまやって来たものの結果なのかもね
普段のたわいない会話でも
楽しむものではなくて、自分の意見を言うもの
(意見を言っちゃダメということではない)
ついでに
会話を楽しんだことが、私はない
会話に対してずっと構えていて
「ちゃんと、相手の求めていることを返せたかな?」
が気になって気になって仕方がないから
自分が言うことも、嫌な気持ちにさせてないかな?
ばっかりで
これじゃ楽しめるわけもない
それと同じような感じで、
この個人的なブログを更新することにドキドキが止まらず
何にドキドキ怖がっているんだろう?
と掘ってみたら
会話とおんなじで「誰かを傷付けたらどうしよう」
「私の話はきっと誰かを嫌な気持ちにさせるかもしれない」
だった
「誰かに私が考えていること、思っていることを知られたら
侮辱されるだろう、うわって思われるだろう、白い目で見られるだろう」
「それならどんなことを書けばマシになるだろう?」
っていう思いがどこかチラチラしていた
意味があること、価値のあること、正しいことを言うならいい
と思っていた
でも、何にもない私にそんなことが言えるわけもなく
「何でもないのに、更新していいのかな
リブログまで付けてよかったのかな
毎日更新してよかったのかな」
を繰り返したここ1ヶ月くらいだった
私の「まともに見られたい」「マシなことをするならいい」の呪いはホントに尋常じゃなくて
これが世間体とか、無価値観とか、劣等感からくるものなのかも
ただ、1ヶ月くらい続けると、怖いのはまだ怖いけど
もういい!どうにでもなれ!感が大きくなってきた
そしてふと思ったこと
「この先1年捨てるなら、
意味もなく、価値もなく、正しくないかもしれないことを
ひたすら言いまくってもいいんじゃない?」
ただの「私はこう思った」を
365日言いまくっても大して変わらないんじゃない?
何をやろうがやるまいが、捨てちゃったこの先1年
無駄なことをやっても、やらなくても変わらない
それならじゃんじゃん「私はこう思った」を書いたらいい
今までずっと封印してきた「私はこう思った」
「私は今こう思っている」
ずっと相手の求めること、場の正解のようなもの
評価ばかりの会話、自分に禁止ばっかり
そうやってずーーーーーっと自分の脳内とノートだけにしまっておいたもの
「今の私が思ったこと」
ほんとに何でもない私だからできる
自由に書くということ
何か怒りがあるとか、怒りを表現したいんじゃないけど
思いっ切り暴れまくって、言いまくって、書きまくってみたい
そんなのに、意味も価値も正解もあるわけがない
だからこそやりたい
それが今の私が思ったこと、です