昨日のブログで、

私が、子供のことに対して

今取り組んでいることについても書きました


それは、子供のため・・・でもあるんだけど

やろうとしていることが、

自分が今までやってこなかったことばかりで


正直、子どものためと言うよりも

自分のため、自分の人生のためになっています



知的や、自閉のあるこどもともコミュニケーションをとって

本人が自分で選んで、決めて、責任持って行動をして生きていく支えをするのだけど

(ちなみに、我が家の子たちに知的障害はなく自閉のみ)



まてまて、

私がコミュ障(非ダイヤだし)

私も選んだことも、自分で決めたことも、その責任を果たしたことも

ほぼない


ほぼ、も言い過ぎか


ない


自分で選択したことなど、ない!


この状況で、子どもたちに選択をしてもらう

子どもたちと楽しくコミュニケーションを取る

というのは、正直無理ゲーなのだ



だからこそ、ダイヤを思い出して

非ダイヤ思考、ゴミ価値観を捨てて

落ち着いて対応しないと


やってけないー!!驚き

と、実際にやり出してガンガンに感じています




そもそも、

この日本という国時代が

子どもに自由に選択をさせないでもある


親が進路や職業を決めちゃったり

みんなと同じであることが大事だから、

みんなが進学するから、みんなが就職するから

で、自分の身の振り方を考えるのが普通だったりする


逆に欧米では、自己選択、自己決定の方が当たり前なので

子供の頃から、当たり前として選択をして決定をして

そして、自分の選択をもとに責任をとっていく



まず、日本で育ってきた時点で

選択、決定、責任って環境次第では身に付かない


日本は自分で決めていないのに、自己責任論だけ強い

理不尽な国でもあります

(↑おめめどうさんの受け売りです爆笑)



だから、みんなと同じにするのが◎だし

日本自体が障害に不寛容だから、

障害がある人が社会に合わせていくか

合わせられなくて厄介にされるか


自分の意思を出さないことを良しとして、

指示待ちとして育てていくか

(周りの人の言うことを素直に聞くが◎)


になっちゃう



障害がなくたって、親の言いなり、親の指示待ちが◎

って日本全体の価値観みたいになってるから

私もまんまとその価値観で育って


立派な指示待ち人間になりましたキラキラエヘン魂が抜ける




そう言うこの国のマジョリティもあって、

私はすっかり自分で選ぶなんてしたこともなく


自分で選んだつもりが、

親から与えられたゴミ価値観や母由来の価値観で

選ばされただけなので



私はほんとのほんとに

選択が苦手です



選ぶのが怖いし

無自覚に人に選択してもらおうとしてる

人の言う通りにするのが楽で


簡単な2択の選択ですら

(どっち食べようかな?どっちに行こうかな?とか)

頭が真っ白になってしまいます




それでも、子どもたちに自分のことを選んでもらうを進めるんだけど


ほんとに選んでもらうって難しいアセアセ


子供のことなのに、私が嫌な方だからザワザワするとか

この選択はして欲しくないから、選択肢に挙げないとか

つい、それでいいの?って発してしまったり


そんな場面ばかりで

「選んでもらうって、キツい」

と思うことが多々あります

ええ、多々あります



だから私は

「これを、子どもたちに選んでもらう、を取るか

いつも通り、私が勝手に決めちゃう、を取るか」

を一旦意識して

私が選んでもらうを選択したから、

私がこの選択に関して何か言うを「捨てる」んだ

と思いながらやっています


これも期待があるから、だねタラー

自分の好むような方を選んでもらいたい

自分の思うように選んでもらいたい

・・・ってまだまだ思ってるもん




選択するとは、選ばなかった方を諦める行為


選ばなかったら諦める


一つを選んで、もう一つは「あとで」は順番だから

選択をしていないことになる


↑これも受け売りだよピンクハート


もー、今まで子どもたちにも

どっちか選んでもらってもグズグズするから

じゃあ、後でにしようか?ってやってたし


それで色んなことをうやむやにして楽をしてきたので

やってきたのが選択じゃなかったことがショックでした




では、何故選べないのか?

それは、頭の中に選択肢がないから


何食べたい?に食べたいものが浮かばないのは

食べたいものの選択肢が頭の中になくて


それでもいつも同じを選ぶのは、

選んでいるのではなく、過去の記憶を頼りに言っているだけ



うちの長男が「ラーメン食べたい」と毎朝言うのに

全然食べないのは、

食べたいものじゃなくて、

朝はラーメンというってこだわりになってるだけなんだぜ!

(ラーメンと答えるって言うこだわり)



自分のことに置き換えてみると、

私は本当に好きでそれをやっているのか、

それしか選べなくてやるしかなくなってるのか


私はいつも買う小麦粉を、これと選んで買ったのか

違う小麦粉は選択肢にあったのか?


いつも行くスーパーを選んで行ったのか?

ここに行けばいいと思って選んだのか?

(例えが完全に主婦)


選んだつもりだったけど、

全然選んでない、と思う


そもそも考えてもいなかった



そこに行けばいい、これを買えばいいっていう考え方だったな



これで、子どもたちに選択してもらって

その後の決定や自己責任を見守れる???




そんなわけで、

子どもたちの人生のためでもあることは

結局は、まずは自分ができるまでやろうか

ってことでもあった


自分を棚に上げず、

自分のことを少しずつ選択していく練習



そして、私も子どもたちも

自分の意思で自分のことを選択して

自分の人生を生きていきたいな




過去が非ダイヤ過ぎて、

スタート地点が一般の人よりも

ずっとずーーーっと後ろなことばっかりだけど


まずは自分のスタート地点に立つこと

そこから進むこと





おめめどうの支援や考え方は

最初は子供たちのためだったけど

私自身の生き方、考え方、価値観の勉強でしかない


ダイヤを思い出すためにめちゃめちゃ読み込んでる

ナリ心理学も!


なんなら2つの言っていること、世界観が似ているので

今まで真逆を生きてきた私にとって

うわー、そうやって考えるんだ!まみれです

それだけ、ヘンテコすぎる世界を生きてきたって大損



40歳でやっと1歳くらいになったでしょうか?

この世界や人の在り方から学び直します