昨日は、茨城県日立市にある

「奥日立きららの里」というところに遊びに行ってきました


ここには「日本一長い滑り台」があって

それを滑るためにレッツゴー!


私も乗ってみました

結構スピードが出てちょっと怖かったけど楽しかったです

長男は5回乗った(↑半袖BOY)



行きは常磐道をずっと上って約3時間、

帰りは下道2時間+東北道1時間半と言うロングドライブをしてきました


今まで東北自動車道は交通量が多くて怖いイメージしかなくて敬遠していたけど

思い切って乗ってみたら

すっごく走りやすいし、全然怖くなかったチョキ

広いのと、ずっと片側2車線なのと、混んでいなかったのがよかった


東北道が怖くなければ、お出かけの幅が広がりそうで

思い切って乗ってみてよかったです




はい、本題!



タイトルの「私は不安ではない」は

アファメーションでも

不安がないわけでもなくて


「私」は「不安」ではない、というのが

ある日ふと、わかりまして


同時に

あ、私って今までわかってなかったんだなー

ってのもわかりました



文字を読んで「そりゃそうだ」なんて思っていたけど

実際は、不安に飲み込まれすぎていて不安と自分がすっかり同化していたので

同化しているのか、別だとわかっているのかすらわかっていなかった

のでした




それがわかったとしても、

まだまだ私は、不安にフォーカスする思考癖が強くて

不安が元になって感情が揺さぶられたり、行動をすることだらけです




元々不安感が強くて、それで20代にはうつ状態に突入して

当時の主治医からも「不安が強いタイプ」と言われていました


それだけ不安が強いんだけど、

私自身は不安に飲まれすぎて、重苦しさや生きづらさは感じるけれど

不安から自分がどういう行動を取るのか

までは全く見えていなかったなあ、と

今振り返ってみてようやくそう思います



以前からノートをする際に、

事実と自分の感情(むしろ妄想)を分けるようにしていたものの

それでも分けるのがあまりにも苦手で、


最近、事実と感情を分けるノートを少しだけ細かくしてみました


ノートを見開きで使って、

左右のページを半分ずつに折り4等分にして

出来事→心の中→その後どうなったか→振り返り

を書き出しました


日々子どもたちと過ごしていて、

言いたくなったけど我慢したことや、

心の中でわーわー感情が動いたことを特に書いています


ここでちょっとだけ細かくしたのが

「心の中」のところ

[〜と思った]の形で書いていたのを、

もう少し感情の単語が入らないものかとなるべくどんな気持ちになったかを書いていたところ



大半が[不安]でした

ほぼ不安


言いたくなったけど我慢したことや、反応した出来事が主なので

ネガティブな感情になりやすいのは当たり前なんだけど

どれもこれも、不安だらけでした



こうして視覚から不安ばかり感じている自分を見つめていったので

もしかしたら、私って不安ばっかり感じてるんだ

でも、不安は「私」ではない

→私は不安ではない

って繋がっていったように思いました



不安が多いからか、その他の感情はとても少なくて

ビックリした、とか、安心したとか、ちょっと嬉しかったとか

があるかなー?くらいでした


それくらい、感情を自分でも感じられていないんだ

ってわかって


それでも日々イライラしたり、焦るような気持ちにはなる中で

感情がたまって、大分大きなものにならないと

自分が自覚できないくらい、感情にフタをして来たんだなあ

と思った時



・怒りの感情さえ押さえ込んでいると指摘されたこと

・恐怖感が強くて、ポジティブな感情に気付かない話

を思い出しました



怒りの感情さえ押さえ込んでいる

は、27歳くらいの時に受けた性格検査(カウンセリングで専門の方に検査してもらいました)

で指摘されたこと


確かに20代は、怒ることがほとんどなくて

私は怒ることってないなあと自分でも思っていました

それが、子育てを始めて怒りが大爆発してしまって、自分でも何が何だかわかりませんでした


一度爆発した怒りは止まらないし、

何度我慢しても我慢ができないどころか

うちの母のようになってしまった自分に物凄くショックを受けたんだよね。。。


で、喜怒哀楽は

怒りの感情を抑えていると、その下の哀しみも抑え込まれ

哀しみを抑えていると、その下の喜びや楽しさも抑え込まれる

という話を聞いて、


相変わらずの無自覚な私は

「私は怒りを抑えこんでないと思う」

って思い(おバカすぎる)

哀しみを通り越して、喜びや楽しみを探そうと

気分やテンションを上げることに力を入れるのであった


と言うことは、

怒りや哀しみをしっかり出さない限り

喜びや楽しみはわからなくて当たり前なんじゃない?




恐怖感が強くて、ポジティブな感情に気付かない

については、

うつ状態の治療中、生まれてはじめて心からホッと安心した気持ちや、人に対する愛おしさを感じて

「私も人間だったのか!」と思った話を主治医にした時に聞いた話


当時飲んでいた抗うつ薬の効き目から推測して

扁桃体という、恐怖感を司る部分に作用する薬なので

(↑扁桃体のところ、松果体って間違えて書いてたので訂正したよ昇天)

扁桃体の興奮がおさまって、恐怖感が落ち着いて

やっとポジティブな感情を自覚できたのではないか?説


主治医には簡単に母との関係のことは話していたので

「もう、恐怖を感じることはなくなったので、これからは安心の世界になったことをゆっくり実感していくこと」

ともアドバイスをもらった


当時は何が何だか?だったのだけど


結局は、恐怖感でいっぱいな時に人間が当たり前に感じる感情や安心感を自覚するのは無理で

まずは恐怖感を落ち着かせないとね

ってことなんだよね



で、

私はこういう前提があるので

色々一足飛びにはできるわけがない

のは、当たり前なのだけど


何せ、自分が不安に飲み込まれていることさえ自覚できなかったので

ほんとのほんとに

一体何からやったら良いのかわからなかった

んだよね




そんな中で、

やっとこ「私」と「不安」が別だーってわかって

(私の中では正規の大発見レベルなんだけど)


何が言いたいかっていうと


はー、気持ちがすっごい楽になったーピンクハート

です!



なんだ私、不安じゃないじゃないの!

って、至極当然なことを当たり前に思うことって最高ね


思えない時って、わざと思えないんじゃなくて

本気で飲み込まれて絡まりまくってるだけだから苦しいのかも




私は不安ではないんだ

感情だって私じゃないや

ただ、私の中から出てくるものだから私のものだけど

それは私自身ではないんだよねー

って思えた時



それなら自分の感情を楽しめる人生を、楽しんでみたいなーニコニコ

とそんな気持ちがわいてきた



そもそも、感情を感じること(感じ切ること)や

不安を解消することをやり切ろうと思ったのは

ダイヤを思い出すための手段や過程のためだったんだけど



ダイヤを思い出したら、

自分自身だけでも、人生楽しめるんじゃない?

と思えたら、かなり楽しみになっちゃった

うへへ



そんなわけで、

恐怖心が強くて、不安まみれの私でも

まあ、何とかなるんじゃない?という話、になったかならないかはあなた次第です