今日は長いよ!
今日は、去年から受けているカウンセリングを受けにでかけてきました
1時間のカウンセリングの中、
ずーっと色々私が喋っていて
最後の方に、どかーんとやってきたものがあって
その時に気付いたことと、その後ノートしたものについて
ブログに書いていきます
昨日のブログも、
何だかんだ繋がっていましたよー!
私、今でも「自分は欠けている」って思い込んでいて
そのせいで、大分引っ張られて混乱していました
何に欠けているか?
何が足りないと思い込んでいたか?と言うと
「愛情」です
この曖昧なものに、私もまだまだ引っ張られてました
カウンセリングでは、
私が飢えている気がしたのは
もう自分の愛情をもう奪われたくなかったと思ってしまっていたからだ
と話しました
人の役に立ちたくない!
誰かに頼られたくない!
人に優しくしたくない!
今までずーっとお母さんに対してして来たことで
ここに私の全人生をかけてしまった無駄が、
まだ許しきれていませんでした
お母さんのことを最大尊重して損した
お母さんのことを理解しようとして損した
お母さんのことを最高に愛してきて、めっちゃ損した!
うちのお母さんに対して
私はあんなに尊重して、理解して、愛したのに
結局お母さんは、私の優しさや気持ちを奪ってきた
と思い込んでいたから
ということは、
私が人に対して尊重するのも、理解するのも、優しくしたり手を差し伸べるのも
損でしかないし、また奪われるのかもしれない
そんな風に、思い込んでいたのがわかった
私は非ダイヤに育って、
世界は冷たくて、周りの人は敵で、世の中は怖いところ
と思って生きてきた
私が私のままでいると、
嫌われるし、いじめられるし、認められないし、信用されないし、愛されないし、迷惑で人を不機嫌・不快にする
そう思い込んでたから
それがダイヤミングだ!と言うことを名目に
私の嫌だと思っていたところや、隠したかったところを少しずつ出していったり
存在を消そうとしなくていいこと、
そのままみんなの輪に混ざっても大丈夫なことを実感していく中で
自分の思う自分のままでいると、
それだけで嬉しくて楽しくて、
そんな自分がいいなあとすら思えてきた
それを繰り返していくうちに、
みんなステキだなあ、大好きだなあ、最高だなあ
と他者に対して素直に思えるようになったり、
副効果!?うちの夫との関係もよくなっていったりして
だんだんと、いろんな人たちの温かい気持ち、優しい気持ち、
愛のような気持ちがハッキリと私にも見えてくるようになりました
特に夫に関しては、
私が10年近く意味不明な不気味さで、一緒に生きてきたのにノーダメージで
しかも私がのびのびしているだけで、夫は非常に嬉しそうにしているのが
ただただ驚きだけど、最初からこれでよかったのかの証拠集めにもなりました
ここまで来ると、
ただ、私が人の気持ちを受け取り拒否をしているだけで
ひとりで苦しんでるコントをしている状態に思えてバカバカしくなってきました
それでもまだ引っかかるのが、
やはり子どもとの関係です
つい子どもに対して、取引行動をしようとする私
子どもの言うことに対して
◯◯したらやるから
というようなことを、口から出るのを止めるのにぐぬぬぬぬってなる
しかも、まだポロッとやってしまってる
あとは、いいから1人でやんなさーい!
って手を貸してあげないこともあって
何で私ってこんなに優しくないんだろう?
見守るもできないし、その割には言いなりでその場しのぎもする
何なんだー!!!!
って思ってはノートに当たる毎日でした
それについても、結局はこの「飢えてる感」「欠けてる感」を持っているせいで、
もうこれ以上、奪われたくない!阻止!!
と引っ張られてしまうことに、繋がっていたのもわかり
これまでは
奪われたくなーい、奪われたくなーい!
ってただひたすら守ろうとしていてビビっていたけれど
よーく考えたら、
奪われるもなにも、最初から奪われるものでも何でもなくて
だから、私は飢えてなんかもなくて
飢えてるというのは、ただの勝手な思い込みで
それならば
最初から飢えても、欠けてもいないのだとしたら???
そんな問いがふと浮かんできた
これまでの人生を生きてきたとしても
全く飢えても欠けてもいないのならば、
別に子どもたちに対して優しくすることに抵抗するのって
本当に無駄なんじゃないだろうか?
これ以上奪われて、無駄なことをしたくないと思っていたけれど
そう思い込んで抵抗する方が、無駄なんじゃない???
と思えてきた
それならば、素直に
家族のことを大切にしたらいいじゃない?
私は家族のことを大切にしても、いい
にしたらいいんじゃないだろうか???
そうなんだよね
私はただ、自分の家族のことを大事にしたかっただけだったんだよ
お母さんのことを大事にしたくて、
お母さんには笑って喜んで欲しかっただけだった
そのために
お母さんのことを大事にして大事にして
それなのに全然変わらないどころか、
めちゃめちゃに貶されて否定されて、干渉されまくって監視されて、20歳くらいの時ですらゲンコツされて
挙句には「あんたはお母さんのこと考えてない!」とか言われる始末
大事にしたいものを大事にすることの大切さ
みたいなものが、わからなくなったんだよね
大事にしたいものの中には、
自分自身も含まれているから
自分のことを尊重すること、
大切にすることなんて無駄にしか思えなくなってしまった
それが、夫だったり、自分の子どものような大切な人たちも
大事にしたいのに、できなかった
どちらかと言うと、他者に対しては優しさなどの気持ちが向けられていたのは
それは、結局相手が他者だから
あとは、庭の花にも思いを向けていた
自分にかけたい思いや、子どもたちに対してかけたい優しさを
庭の花に向けて発散なのか、満足なのか?
そうやって自分の思いの処理をしていたのかな?と思う
本当は向けたい気持ちを、
向けるべき対象に向けることもできずに
他者や草花に向けてバランスを取っていた、と考えると
すごく納得できる
子どもたちに関しても
放っておく時に放っておけず、
構うべきところで構えないのも
きっとおんなじ仕組み
だとしたら、
私は飢えても欠けてもいなくて
ただ、家族のことを大事にしていい
家族を大切にすることが、
自分を大切にすることにしてしまえばいい
自分を大切にするのが下手くそなのは今もそうだけど、
だからと言って躍起になって「自分に!自分に!」としなくたって
大切な家族を大切にすることと、
自分の体調やキャパや気持ちを大切にしていけば
それで十分なんじゃない?と思えてきた
子どもたちとの距離感についても、
自分と、子どもたちを大切にしていい、になったら
少しずつちょうど良くなっていくような気もする
自分を大切にしていない!
と私はずっと思ってきたけれども、
去年からノートをしたりカフェに通ったりした時間は
十分に自分へのプレゼントだったし、自分を大切にするための時間だったと思う
何かわかりやすいことをしたから、とか
もっともっと大切にしなきゃ、ではなく
もう十分に自分を大切にする、をやっていた
でいいんだろうね
私が「愛情」が欠けてきたと勘違いしたのだって、
自分の中に愛のような実感がなくて
欲しかったのにもらえなかったものを、その虚構みたいな「愛」という対象に求めていただけ
目に見えない、よくわからない、曖昧なものだからこそ
「これがわからないから、私にはないからダメなんだ」
に繋げていただけ
→これは、ナリくんの講座KISEKI〜MIRYOKUの
内容が裏付けてくれた
だから、
全部嘘で全部意味がないもの
考えたって仕方のないもので
非ダイヤが陥りやすいものに、私も例外なく引っ掛かってただけだった
そんな勘違いを、
私はずっと大切に生きてきちゃった、が
よーくわかった一日でした
そんなこんなで、
帰りの電車では昨日の夜更かしの寝不足と
脱力感で気持ちよく眠って帰ってきました
まだまだ勘違いはあるんだと思うけど、
何が出てきても多分何とかなると思うので
のんびりやるよー!