(あらすじ)※Amazonより
海に臨む宿で少女が待つものとは――
口減らしのため備中の港町・笠岡の「真なべ屋」に連れてこられた志鶴。潮待ち宿のそこでは、怪しい旅人、改革に燃える藩士、そして想い人―誰もが訪れ、去っていく。おかみに支えられ、懸命に働きながら己の人生を見つめる志鶴の成長と、彼女の目を通して幕末から明治にかけての時代を描く連作集。
歴史小説の名手が初めて挑む人情話。
◇◆
以前、こういう記事を書いた。
このあと早速買って読んでみた。
この記事を書いたときは直木賞候補なんぞに挙がったらうれしいな(候補が発表されてから候補作を読む手間が省けるし笑)と思っていた私であったが、読了後、
「残念ながら直木賞候補に挙がるほどではなかったけど、伊東さんが広い視野で色々書けること&大変意欲的であることが証明された作品だなあ。うむうむ。」
と今後の伊東さんの活躍を思うと、もともと大きなお胸がさらに期待で大きくなった。
その後発表された直木賞候補にはやはり挙がらなかったのだが、この作品を読んだまま記事にしていなかったので今ごろアップ〜。
記念すべきサイクルヒットのあもる一人直木賞(第162回)選考会の様子はこちら・・
→『あもる一人直木賞(第162回)選考会ー結果発表・総括ー』
残念ながら予想通り直木賞候補には挙がらなかったのだが、このたびこの記事を書くにあたって、ざっともう一度読み直してみた。
改めて読むと最初に読んだ時よりおもしろく感じたし、心の細部に染み渡っていく感じがとてもよかった。読めば読む程味わえる作品と言えるのではないだろうか。
上記のリブログ記事にある
(この作品を書いた理由は)
「大学時代の友人(笠岡出身)から「観光客誘致のため笠岡を舞台になんぞ書いてくれ」と頼まれた」
の部分を読んだ、岡山(県内都会在住)の後輩ともともが
「観光客誘致はいいですけど、笠岡にきてもらっても何もないんじゃないんですかね?」
と言ってきた。
うん、キミは北木島の花崗岩で頭をかちわられるがよい。
そういう失礼なことを言うともともに、
私(岡山県超弩級田舎地域出身、現:東京在住!)は答えた。
「いっぱいあるよ!千鳥の大悟の実家とか!・・・あとは・・大悟の実家とか!・・あとは・・大悟の実家とか!!!!!」
きっと私も笠岡の海に沈められ、カブトガニに襲われる運命なのだ・・・笑
何もない、それが笠岡の・・だけじゃなく岡山のいいところなんです!
これは本当です〜。
・・って強調したら県民に怒られるでしょうが、本当になにもないけどいいとこなんじゃ。
でも今はステイホームでね☆
前置きが長くなったが、この作品は今も昔もとりたてて何があるわけでもない笠岡という港町にある「潮待ち宿」(笠岡の旅宿の総称)を行き交う幕末のたくさんの人たちの生き様や生活を綴った短編連作集である。
しかし「とりたてて何があるわけでもない笠岡」と書いたが、江戸中期までの笠岡は大変賑わいのある港町だったそうで、備中国北部の寒村に住んでいた幼い志鶴(主人公)は、父親と大きな町である笠岡に行けることを大変嬉しそうにしていた。
・・口減らしのためとも知らず・・泣ける。
作品の序盤で笠岡について伊東さんはこう書いている。
「備中国の南西部にある笠岡は、瀬戸内海が内側にくびれるように湾曲している位置にあり、気候が温暖な上に波が穏やかで、船が停泊するのに適した港町だった。
備中国西部の農村から笠岡に集められた天領の米・大豆・塩・綿・煙草・茶は廻米船に載せられて大坂へと廻漕されていく。その「津出し港」として笠岡は栄えていた。(略)港はいつも喧噪に包まれていた。」(10頁)
wikiを見ても
「天然の良質な港町を持つため中世より中国地方山間部(特に現在の庄原市東城町・高梁市川上町・成羽町)への街道も整い物流で大いに栄え・・」
とある。
志鶴ちゃんは「備中国北部の寒村に住んでいた」とあるから、高梁とか成羽から連れてこられたんかな・・。
話はさらに脱線するが、この書籍の表紙だけ見ると、ふーん、なのだが広げてみると、なんとなく懐かしい思いになるのは私の懐古チックな気分のせいか。
装画担当の小林万希子氏のHPより→書籍装画『潮待ちの宿』
当時の実際の笠岡を描いたものなのか、想像上のものなのかはわからないが、きっとこんな感じ・・と岡山の潮の香りを楽しんだ。
ちなみに千鳥の大悟が話しているのを聞くと、実家の近所のおっちゃんやら同級生の男子とかを思いだしてめっちゃ懐かしくなる(笑)
・・と言ったら、上記後輩ともともは「あんなにキッツイ岡山弁で話す人は私の周りにはいません」とディスられた〜。うん、キミはやはり一度北木の花崗岩で・・(略)
そんな私の今オススメのテレビは
「テレビ千鳥」(テレ朝 毎週(火)深夜0:15~放送中! ※一部地域除く)
です〜。
大悟の方言がおもいっきり楽しめます(笑)
ほかもいろいろおもしろいよ!勢いに乗ってる千鳥の様子がいい。
脱線しすぎた・・
話は戻りまして。
そんな昔は大都会だった(言い過ぎ)笠岡港の宿に口減らしのために連れてこられた志鶴。
その志鶴を受け入れ、我が子のようにかわいがる宿の経営者である伊都(志鶴の父の従妹)。
2人は親子のように寄り添い、支え合い、激変する世の中を傍目に一所懸命毎日を生きていく。
志鶴が笠岡に連れてこられたのは安政元年(1854年)である。
それから20年後、日本は江戸時代から明治時代へと変わるのだ。そういう激動の時代を生きた笠岡の人たちの物語なのである。
大都会の笠岡、と書いたがそれは江戸中期までのこと、伊東氏は作中にてこうも書いている。
「江戸時代中頃までは、大規模な廻船業者が笠岡港を本拠にして手広く商売を営んでいたが、志鶴が笠岡にやってきた安政元年(1854年)には、取扱量が半減していた。というのも伏越港と笠岡港は、それぞれ宮地川と隅田川という二つの河川の河口に造られているため、湾内に土砂がたまり、次第に大船が停泊しにくくなっていたからだ。しかも、近隣の玉島などの諸港が安価な津料(手数料)で対抗してきたため、安政年間には伏越・笠岡両港の利用者が激減していた。」(11頁)
おのれ玉島め〜(笑)!
いつの時代も低価格にやられちゃう〜。しかも変わりゆく時代(船が大型化)に対応できなかったのも痛い・・・衰退の一途〜。
河川整備に予算をぶっこんでやっておけば〜・・とか今の時代から見て言っても仕方ない。
時代も景色も激しい速度で変化し、人も物も猛スピードで行き交うも、寄り添って生きる人たちの情とその温度はずっと変わらない。
幼かった少女時代の志鶴はそういう人たちを見ながら、大きく温かく成長していく。
この作品のおもしろいところは、その志鶴がただひたすらけなげな女の子、という描き方をしていないところである。いけすかないところもあるんだ、これが。気の強いところもあれば、密かに恋している時もある。時にはいや〜な感じを匂わせることもある。人間ってそんなもんじゃないですか。機嫌のいいときもあれば悪いときもありますって。
いつもニコニコなんて聖人君子じゃないんだから。
人間臭い志鶴ちゃんを見られたのはよかった。
どっちかっていうとその志鶴ちゃんを引き受けた伊都さんのほうが聖人君子であった。
赤の他人じゃないとはいえ(親戚)、我が子でもない子をあれほど立派になかなか育てられないもんですよ〜。
伊都さんが年をとって・・・という場面に「警察」が出てくるのだが、あ〜時代は明治になったのだ、と江戸(東京)では大政奉還が行われ、無血開城とかあった時代にこの作品に描かれる笠岡の人たちは生きてたんだ、と思うと不思議な気がした。
時代やモノは制度は変わっても、そこにいる笠岡の人たちはちっとも変わらないんだもの。
まさに「世話物」という雰囲気をよく出していた作品であった。
伊東さんの作品はやっぱり歴史小説が好きなのだが、こうしてたまに違ったものを読ませてくれるのはとてもいい。今後の作品にも大いに期待したい。
次は『茶聖』についても書きたいと思っております〜。
自粛生活もいいですなあ(仕事には時々行っているが、人が少なくて快適快適)。
そりゃ予測不能な今ではあるが、こうして昔を振り返ったり、読んだ本について書いたり、岡山県にや千鳥について(笑)思いを馳せたり・・
テレビやネットから(煽りや邪気で別の病気になりそう)離れて、この刹那を楽しみたい。
ところで笠岡は生意気にも(笑)山陽本線が走り、線路からも海がちらちら見える町である。wikiにも書いてあるが、山陽本線は笠岡から隣の広島県福山へと続いていく。
また、志鶴が育った「真なべ屋」だが、「真なべ屋」の住所?は作中でこう描かれている。
岬のように海に突出した古城山を間にして、笠岡には二つの港がある。東にあるのが伏越港で、西にあるのが笠岡港だ。(略)笠岡の総氏神である笠神社の参道から横に入った道の先にある真なべ屋・・(10頁)
ステイホームが終わって、新コロが落ち着いたら「真なべ屋」はこのへんだったのかな〜とか探してみるのもおもしろいかもしれません。
いわゆる聖地巡礼ってやつ?
私は聖地巡礼そのものにあまり興味ないんですが(笑)、興味あるかたはぜひ。
とりあえず私は以下の「テレビ千鳥」の購入について迷ってみたいと思う。
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