宝島 | 感傷的で、あまりに偏狭的な。

感傷的で、あまりに偏狭的な。

ホンヨミストあもるの現在進行形の読書の記録。時々クラシック、時々演劇。

 

宝島 宝島
 
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はっ・・はやい!もう帯が『直木賞受賞』ってなってる〜

 

(あらすじ)※Amazonより

英雄を失った島に、新たな魂が立ち上がる。固い絆で結ばれた三人の幼馴染み、グスク、レイ、ヤマコ。生きるとは走ること、抗うこと、そして想い続けることだった。少年少女は警官になり、教師になり、テロリストになり―同じ夢に向かった。超弩級の才能が放つ、青春と革命の一大叙事詩!!

 

◇◆

第160回直木賞受賞作品である。

あもる一人直木賞選考会では惜しくも(?)4位となったものの、本物の直木賞初ノミネートで見事直木賞をかっさらっていった作品である。

 

いつも以上にバットをぶん回し、華麗なる大三振ショーを繰り広げたあもる一人直木賞選考会の様子はこちら・・

 →『あもる一人直木賞(第160回)選考会ースタートー

 →『東京の空の下、悲鳴をあげる。

 →『『あもる一人直木賞(第160回)選考会ー途中経過ー

 →『『あもる一人直木賞(第160回)選考会ー結果発表・総括ー

 →『『本物の直木賞選考会(第160回)ー結果・講評ー

 

私はこの作品を読んで、読書というものに触れてから40年、いやもう少しはっきり「読書」というものを意識した頃からいうとこの25年くらい、薄々感じていたことが確信に変わった瞬間があった。

私はあの世(非現実/幻想)とこの世(現実)が交わるような物語の魔力に異様に取り憑かれてしまうのだ、ということである。それ故、この作品は大いに私を揺さぶった。

 

この作品は第二次世界大戦終戦直後から日本復帰するまでの沖縄を舞台にした3人の少年少女のそれぞれの目線でみたそれぞれの沖縄というクニを描く。

そこには彼らの目で見た色々な沖縄が描かれているが、1つのメインとなる話がある。それは3人の少年少女だけではなく沖縄に住む人の英雄的存在である「オンちゃん」が突然行方不明になる事件をめぐり、彼の行方を3人がそれぞれの立場で探し続ける、という話しで、そのおんちゃんを探し求めるストーリーに、沖縄の持つ独特の文化や歴史が枝葉のように空に向かって広がるように描かれていく。

沖縄は日本であって日本でない。一時的にアメリカではあったがやはりアメリカでもなく、そして日本に戻った。私の知らない沖縄がそこにはあった。そしてきっと今の若い沖縄人自身も知らない沖縄が描かれているはずである。

そういう独特の歴史、また不思議な文化を色濃く描いている。

ユタであったり、シャーマンであったり、伝説の霊能者が眠る森(ウタキ)であったり、現実の世界と霊的な世界が日常生活で交差する世界がそこにはある。

また「語り部」なるものがしばしば登場し、少年少女たちのいちいちにツッコミを入れたり(()の中で語る)、私たち読者に説明したり、沖縄の方便で罵ったり感動したり、読者に一切の断りなく突然現れては消え、消えたと思ったら突然登場して発言する。

それだけ聞くと不思議な作品といえばそうともいえるのだが、それがあまり不思議な作品と感じないところがおもしろい作品である。

 

大学時代に民俗学という科目があり、私は結構その科目が好きで(知識欲を大いに満足させる授業を展開してくれる教授も好きだった)、一般教養の授業であるにも関わらず、1年から4年までず〜っと授業を受けていた記憶がある。今思うと、そういう幻と現実の境目をウロチョロする学問の魔力に取り憑かれていたんだな、私。

この作品はそういう民俗学的視点からもおもしろく描かれている作品であると思う。

 

しかしまあ、その反面疲れる作品ではあった。

戦後のゴタゴタを前にするとどの国でもそうだが、常に死や暴力や非合法的な行為が目の前で繰り広げられ、それがこの作品でも生々しく描かれている。

そしてその生々しさは今も続く沖縄のゴタゴタ、そして将来的にどう解決するか全く糸口の見えない沖縄の基地問題のディープな部分の描写にまで続く。

半分リアルに半分フィクション的に触れられていて、こちらも真剣に読まざるをえない。ゆえにどうしても疲れる。その疲労を緩和させるのが上記の軽口たたく「語り部」の存在ではあったのだが、軽口も多用及び誤用すると読者は・・少なくとも私はイラッとした(笑)

 

もう少し「語り部」のうまく使うと、もっともっといい作品になったんじゃないか、と思ったのだが、本物の直木賞の選考委員はそうは思わなかったようで、

 

「真藤さんの「宝島」は、戦後から(本土への)返還までの沖縄の歴史を、非常な熱量で描いた作品です。沖縄の方々の強さ、明るさ、どんな辛いことがあっても『何とかなるんじゃないか』と思う、ちょっといい加減な面白さも見事に描かれていました。(物語の)語り部が(文章の合間に)茶々を入れる文体は面白く、「これはラップではないか」という意見もありました。」

 

と講評担当の林真理子が述べている。

 

舞台を観ることも多いのだが、シリアスな舞台よりコメディ作品の方が数倍難しく、それはなぜかというと笑いの量が多過ぎても少な過ぎても観客は疲れて(飽きて)しまうことを最近知った。

そういう意味でこの作品の「語り部」の茶々は多過ぎて疲れるのだ。泣きたいくらいつらいところでも笑って「なんくるないさー」と沖縄の人は常に流してきた、ということを表現したいのはわかるのだが、笑いやごまかしを入れすぎると読者は疲れて迷子になってしまう。


講評の林真理子は言っていなかったが、上記の「語り部」を含めてこの作品は大変欠点の多い作品であると思う。スムーズではない場面変換、説明不足で様々な事象が突拍子もないタイミングで眼前に突然現れる感じなど、もっと上手く書けたらと思うところも多かった。

しかしその細かい欠点など全く気にすることなく、ダイナミックに最後まで怒濤の勢い(ある意味強引に)でラストまで語り続けようとする作者の熱意は大いに伝わった。その熱意はガツンと私に響いた(・・でもあもる一人直木賞では4位なんですけど笑)。

たとえるなら大きな岩を突然投げつけられた感じ。当たりどころ悪かったら死ぬわっ!

ゴツゴツで全く心にしみいらないんだけど、ただインパクトと衝撃はものすごく、痛みが記憶にものすごく残る、そんな感じ。

 

メインストーリーである「オンちゃん」行方不明事件の顛末について、3人の少年少女がひたすらこだわり続けたわりに、ラストのラストの結末が思ったより肩すかしで全く衝撃を受けることがなかったのがかなり残念だった。多分泣ける人は泣けるんだと思うのだが、結末につながる途中の悪石島(トカラ列島)での描写があまりにスムーズじゃなく、そのモタモタ感に勝手にいらついていたので(加齢で短気になったのかしら笑?)、結末でも泣けるところも泣くことができず・・まあ、私の性格の問題なので気にしないでください。

 

沖縄の方言や語り部の不思議な語りなどクセの強い部分も多く、広くみんなが楽しめる作品とは胸を張っては言いづらいが、やはりダイナミックで強く引き込む力は相当なもの。

そしてそこには私たちの知らない沖縄がある。

今だからこそ読んでみる作品なのかもしれない。

この作品が左右どちらの思想屋さんにも利用されることなく、エンターテインメント小説として純粋に愛され、永く大事にされる作品となっていくことを私はひたすら祈る。

 

 

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