$感傷的で、あまりに偏狭的な。

(あらすじ)※公式ホームページより
かつて、日本で戦争があった。
大正から昭和へ、1920年代の日本は、不景気と貧乏、病気、そして大震災と、
まことに生きるのに辛い時代だった。
そして、日本は戦争へ突入していった。
当時の若者たちは、そんな時代をどう生きたのか?
イタリアのカプローニへの時空を超えた尊敬と友情、
後に神話と化した零戦の誕生、
薄幸の少女奈穂子との出会いと別れ。
この映画は、実在の人物、堀越二郎の半生を描くー。
生きねばー。

◇◆

だからこそ、今、少年少女に見てほしい。

(以下、ネタばれします)

この作品は主人公の堀越二郎の、
(1)幼いころからの夢である飛行機技師となり零戦を誕生させる話。
(2)軽井沢で出会った菜穂子という女性と恋をし、結婚し、そして別れ、の話。
の2本が組み合わさった半生を描いたものである。

公式ホームページに
「堀越二郎と堀 辰雄に敬意を込めて。」
とあるように、

(1)は、零戦の設計者である堀越二郎の物語
(2)は、堀辰雄の小説、『風立ちぬ』、の私と節子の物語

を下敷きにしている。

※ちなみに宮崎駿版「風立ちぬ」の主人公の恋人の名前が、
 「節子」ではなく、「菜穂子」であるのは、
 堀辰雄の作品に『菜穂子』というものがあり、そこから採用したのでありましょう。


この映画で特に注目すべき点は、
イタリアのカプローニへの時空を超えた尊敬と友情
のシーンに大変多くの時間が割かれていたことである。

私の実感による計測(要するに根拠のない勘)によると、
作品のうち、およそ半分がこの夢のシーンであった。

少年が将来の夢を語り、憧れの人物であるカプローニが少年に親身に答える。
この2人の対話は、
少年時代の「宮崎駿」が、今の「宮崎駿」に問いかけているような錯覚を覚えた。
自分の今の姿をカプローニに重ね合わせたのではないだろうか。

スタジオジブリの鈴木プロデューサーによると
「宮崎駿が初めて大人のために書いた映画」
ということである。

確かに内容は難しいし、重いし、R18的なセクシーシーンもあるし。
  →セクシーシーン・・・ええ、これは私だけの感性でありまして、後述します。

おじちゃんおばちゃんに、かつて夢見た時代を思いだしてほしい、というメッセージ、
を読み取ってもらいたいのかもしれない。
おじちゃんおばちゃん、おじいちゃんおばあちゃん、死ぬまで力強く生きよう!
みたいな。

だからこそ!
だ~か~ら~こ~そ!!
私はあえて言おう。

今、この作品を、思春期の少年少女に見てもらいたい。
(もっと小さい子供でもいいが、内容的にはちょっと難しいので。)

正直、もうおじちゃんおばちゃんじゃ間に合わないことがある。
ピアノを始めることは出来ても、ピアニストにはなれない。
情熱だけでどうにかできるには、年齢に限りがあることが多い。

カプローニさんも夢で言ってるではないか。

少年よ、まだ風は吹いているか?

と。

宮崎駿は、堀越二郎とカプローニの姿に自分の姿を重ね、
少年少女に一心不乱に夢を追いかける美しさを伝えたかったのではないだろうか。
コンプレックスや悩みがあっても、
夢を追いかける熱い気持ちがあれば乗り越えられるのだ、と宮崎駿は言っている。
だって、作品の中の堀越二郎さん、すごくステキだったもの。

幼いころ、コンプレックスでもあった近眼が原因で夢をあきらめなくてはいけないのかも、
と足掻く姿も、
一心不乱に勉強し、東大に入り、飛行機を設計する夢を叶えた姿も、
どの二郎さんも素敵だった。
そんな姿に菜穂子も惹かれたのだ。

風が吹き続けている間、ずっと夢に向かって羽ばたいていけ!

宮崎駿はそう言っている。
と思う。
そしてそれが、次世代の若者への遺言なのだ。
と思う。
まだ死んでないけど。

また忘れてはならないのが、菜穂子との熱い愛を育んだ時間の描写。
ここは、堀辰雄の描いた「風立ちぬ」の世界への憧憬がひしひしと感じられる。

白いカンバスに絵を書く菜穂子の姿。
傘が風に飛ばされる風景。
上記で指摘した、夢を吹き上げる風とはまた違う風が、ここにも吹いている。
恋の炎を燃え上がらせる強い風。

風は2人にあらゆるものをもたらした。
傘を飛ばし、帽子を飛ばし、飛行機を飛ばす。
2人の手はいつもそれらをキャッチした。
ナイスキャッチ♪
けれど、キャッチしてもその手からするりと離れてしまったのは、二郎と菜穂子の永遠の時間。

二郎と菜穂子に残された時間は短かった。
だからより濃く。
だからより近くに。

その限りある時間を濃く過ごすために、周りの人の尽力を忘れてはなるまい。

急遽結婚を決めた2人の仲人となってくれた二郎の上司の黒川、
その黒川の奥様、
菜穂子の父親、
二郎の妹・・・
みなが2人の短い時間を応援していた。

この作品には悪い人、が出てこない。
戦争というものは「悪」であるが、その戦争の当事者である人間に悪い人がいない。
その矛盾もここには描かれている。
飛行機を作る。
美しい二郎の夢。
その夢の結晶である飛行機が戦争に使われる。
この矛盾。

しかし二郎の夢の中で、カプローニはこうも言っている。

「戦争はじき終わる」
「飛行機は戦争の道具でも、それ自体が美しい夢。設計士は夢にカタチを与える」
   →台詞の記憶が曖昧だが、内容はそんな意味だったと思う。

二郎、そしてそこからつながる世界への矛盾・ジレンマへの回答がそこにはある。

作品中、たくさんの「美しい」という言葉が出てくる。
学生時代、サバの骨を箸でつまんで、
「この骨の曲線の美しさは飛行機の〇〇と同じだ」
と言ったり、とにかくたくさんの美。
美しい風景、美しい飛行機、美しい菜穂子、美しい夢。

美しいものは、強い。
美しいものは、永遠である。

宮崎駿は、強く美しいものが好きで、強く美しいものを残そうとしたのだ、
と強く感じられた映画でありました。

とまあ、おおむね満足したのですが、小姑あもちゃん、一言もの申す!

音楽が!
音楽が!
まるでラピュタ。
最後の作品だから、総決算、ということだったのでしょうかね?
あちこちに似たような音楽がちりばめられており、
ジブリ音楽好きのあもちゃんとしては、いささか不満が。

しかしそれとは反対に、飛行機描写のシーンが史上最高に多かった(と思う)のは
こちらも総決算、の意味があったのだろうが、
宮崎駿が書きたかっただけやーん、と微笑ましく見ることができた。

そしてラスト。
菜穂子の死を強く描きすぎている気がするのです。
いやいや、結局あれで泣いちゃうんですが。
でも3つの手紙を残していくシーン、そしてサナトリウムに戻るシーン、で
菜穂子の死が確実に理解できる。
観客のために丁寧に描いたのだろうか。
それとも、さあ!今!お泣きなさい!って感じだろうか。
終わり方としては、とてもわかりやすいのだが、
そのインパクトが強すぎる!と感じたのでした。

以上、小姑あもるの小姑目線メモでした。

そんでもって最後に、
問題のあもちゃん的R18の菜穂子と二郎の初夜のシーンについて。

菜穂子「来て」
二郎 「でも、お前・・・」

ちょっとーーーーー!!!!
菜穂子、積極的~ぃ。
よっ!肉食女子!

しかもなんか秘めたる感じがかえってエロい!
布団に呼び込む感じがエロすぎる~!

私の前にはチビッコ女子が座っていたのだが、
ああ、今はまだ見ちゃダメ、
と目をおおってあげたくなった(笑)


$感傷的で、あまりに偏狭的な。

美しいあもちゃん、大量のポップコーンを美しく貪り食う。
わ~い、おいしい。
生きているってすばらしい。

風立ちぬ、いざ生きめやも。