今回は先日18日から20日の間に投稿しようと思っていながら、都合により数日遅れの投稿となった記事です。


2014年9月18日


 東京から車で長野県北部の信濃町へ向かう。

 東京の自宅からだと首都高速中央環状線〜5号池袋線〜東京外環自動車道〜関越自動車道〜上信越自動車道を通るのが最も早くて楽ではあるが、それでは面白味は全く無いからよほど急ぐことがなければ一般道を使うことが多い。


 国道122号線〜国道125号線バイパス〜国道17号線(または産業道路で上尾へ抜けて国道17号線)で高崎へ。

 高崎からは国道18号線に一旦入るが、すぐに国道406号線に入って榛名山の裾を回り込んで東吾妻町の郷原から国道144号線に入り、長野原町から国道292号線で草津温泉を通って渋峠を越えて長野県に入り志賀高原を下って(冬期通行止)信州中野から北信五岳道路を通って信濃町へ向かうか、国道406号線の権田(旧倉渕村、現在は高崎市倉渕町)から二度上峠を越えて北軽井沢を抜けて嬬恋村の大笹から国道144号線に入って鳥居峠を越えて長野県上田市の旧真田町で再び国道406号線(群馬県側の長野原町から長野県側の旧真田町は144号線との重複区間)に入って菅平高原を通って須坂市〜小布施町を通って国道18号線で信濃町へ向かうというのが常だった。

 長野原町のJR東日本吾妻線長野原草津口駅付近にて。

 半月後に迫った新線への切り替え準備工事が夜を徹して行われていた。

 八ッ場ダムの底に沈んでしまう岩島〜長野原草津口間を新線に切り替えたのは半月後の10月1日。

 それに先立って、9月24日をもってこの区間におけるそれまでの線路での運転を終了、新線への切替工事と新線での乗務員訓練運転に6日間が費やされた。


 信濃町に着いてからは少し昼寝(朝寝?)をしてから隣町の飯綱町にあるサンクゼールレストランにランチを楽しみに出かけた。夫婦でこちらにいる時にはお約束のように出かけるレストランだ。









 飯綱町は牟礼村と三水(さみず)村が合併して生まれた町で、西には飯縄(いいづな)山麓に広がる飯綱東高原、北は斑尾高原から続く丘陵地帯、南は善光寺平(長野盆地)、りんごが特産品である。私は旧三水村のりんごが特に好きだ。

 サンクゼールレストランは南に開けた丘の上に建っていて、天気が良ければ遠くに小布施の町並み、さらにその向こうには菅平から志賀高原にかけての山並みを眺めながらの食事が楽しめる。







 牧歌的な風景を眺めながらのコース料理は緩やかな時の流れに身を委ねる贅沢な時間•••。

 数年前に創業した父親から息子さんへ経営がバトンタッチされたように記憶しているが、理念は継承しつつ少し経営方針が変化したようにも見える。


 食後は長野市松代町の旧松代藩武家屋敷通りへと向かった。写真は真田家の重臣、樋口家の邸宅跡である。

 松代城址。松代藩の初代藩主は真田信之(真田昌幸の嫡男、真田幸村として有名な真田信繁の兄)である。

 真田家は武田信玄の家臣となって家を守ろうとしたが、信玄没後に武田勝頼の代に武田家が滅亡すると越後の上杉、関東の北条、東海の徳川に囲まれつつも対抗して生き残りを図った。

 徳川家康が差し向けた二万の大軍をわずか五千の兵で上田城に迎え撃ち、徳川軍を徹底的に叩きのめして屈辱的な大敗を被らせたのは有名だが、その後は豊臣秀吉の仲介により和睦した。

 徳川家康は昌幸の嫡男である真田信之(当時は信幸)の資性に着目して気に入り、重臣の本多忠勝の娘£小松に自分の養女としての格を与えたうえで信之に嫁がせている。

 江戸幕府開府後、家康が没してから2代将軍秀忠の時代になって上田から松代に転封となった。

 池波正太郎は代表作「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人梅安」の他にも多くの時代小説を遺しているが、長編小説「真田太平記」をはじめ短編小説でも「真田騒動」「恩田木工」「信濃大名」など数々の「真田もの」を発表している。

 真田氏といえば上田城を築城し、徳川の大軍を二度も撃破した真田昌幸と次男の真田幸村(本名は信繁)が有名で歴史ファンにも人気が高い。

 しかし、昌幸の長男•信幸(→信之)の政治能力や冷静沈着に時代を見る眼は父や弟を遥かに凌ぐほどだと私は常々思っていたし、池波作品にもそれが表現されていて、小説ながら

(我が意を得たり)

といった気分になる。事実、関ヶ原の戦いで西軍に味方した昌幸•幸村と袂を分かち東軍に従った信之の難しい立場を上手く切り抜けて明治維新まで続く松代藩の礎を築いた手腕はもっと評価されてもいいと思っている。

 余談だが、池波作品における信之と小野お通のロマンスは美しく儚い。


 長野電鉄松代駅跡。

 長野電鉄屋代線が廃止されて久しいが、駅舎は現在も残り、バスの待合室として利用されているようだ。



 線路は撤去されて整地された路盤跡は駐車場になっていた。

 東京の高校時代、夏休みの部活の合宿で志賀高原に行ったのだが、復路は湯田中駅から急行「志賀」で上野駅に戻った。国鉄の急行列車が長野電鉄へ乗り入れていた時代である。169系3両編成が上野〜屋代間を急行「妙高」や「信州」に併結されて信越本線を走り、屋代駅から分割されて長野電鉄に乗り入れていた。この松代駅にも停車していた。まあそれは10年どころか既に40年以上前のことに遡るわけだが•••。



2014年9月19日

 やってきたのはJR東日本信越本線黒姫駅。

 駅の向こうには黒姫山。ホームに立てば正面に黒姫山を挟んで右に妙高山、左に飯縄山が一望できる高原の駅らしい佇まいだ。

 半年後に迫った北陸新幹線•長野〜金沢延伸開業によりJR東日本から経営分離されて第3セクターに移行する信越本線。長野県内では、しなの鉄道•北しなの線となるため定期券の扱いに関するポスターが掲示されていた。

 明治21年(1888年)5月1日に柏原駅として開業し、80年後の昭和43年(1968年)10月1日に黒姫駅に改称された。私が幼少の頃に駅名が現在の黒姫駅に変わったので柏原駅としての記憶は無い。翌年には隣の新潟県側にある田口駅が妙高高原駅に改称された。


 この日は黒姫駅から普通列車「妙高1号」直江津行で新井駅まで行き、新井始発で後続の快速「くびき野3号」新潟行に乗り換えて柏崎駅まで乗車。

「妙高1号」は北陸新幹線長野開業時まで改装信越本線の特急「あさま」などで活躍していた189系特急型電車の中間電動ユニット4両を上越新幹線開業まで上越線の特急「とき」での活躍を皮切りに房総特急用にATC取り付け改造を施工し、転属を重ねて長野へ流れ着いてきた183系1500番台制御車で挟んだ長野総合車両センターのN101編成。長野に来てからは「あさま色」に塗り替えられていたが、最後は国鉄特急型オリジナル色に戻されていた。


 新井駅から乗車したのは485系特急型電車を使用する快速「くびき野3号」。この日は国鉄特急色を纏った新潟車両センターのT18編成。

 新潟には485系の配置は無かったが、国鉄分割民営化後の特急列車のネットワークとそれに伴う運用を睨んだ車両の転配が行われ、新潟の485系は青森や秋田、金沢、向日町などからかき集められた。



 かつて上沼垂色に塗り替えられていた新潟方に連結されていたクハ481-1508。国鉄色に戻されても車号の切り文字は復活せずペイントだったのがちょっと残念だった。元は北海道向けに製造されたクハ481-1500番台はJR化後にジョイフルトレインに改造されたりしたが、この1508は最後まで一般運用に就いていた。

 屋上のライトがふたつ目なのが485系の北海道仕様1500番台の特徴。青森運転所に新製配置され、当初は大阪〜青森間の特急「白鳥」で足慣らしをして札幌〜旭川電化完成に伴って北海道入りし、特急「いしかり」で北海道での活躍を始めた。

 北海道向けに製造された1500番台だが、北海道の厳しい気候に耐えられず故障が相次ぎ、新たに開発された781系がデビューすると本州に戻されて東北本線の特急「はつかり」などで活躍、その後は新潟などに転属、さらにジョイフルトレインに改造された車両は長野や勝田へと移っていった。最後まで新潟に残ったこのクハ481-1508は最後まで信越本線や羽越本線の特急「北越」「いなほ」や快速列車「くびき野」で活躍した。



 座席はリフレッシュされているが、国鉄時代の面影が色濃く残る車内。こちらは中間車の1000番台で、クハ481-1508はシートモケットが張り替えられたくらいで背面の大型テーブルは無いシートだったと記憶している。


 脇野田駅•••この小さな駅が新幹線の駅として大きく変貌を遂げるとは誰が予想しただろう?

 脇野田駅から生まれ変わる上越妙高駅の建設も佳境に入っていた。信越本線はこの駅舎の反対側に移設され、写真の場所は駅前広場に変わっている。

 半年後の北陸新幹線金沢開業に先立って信越本線は前述の通り移設されたが、翌年の3月14日の新幹線開業までの短期間、脇野田駅を名乗っていた。

 直江津駅西側で北陸本線と合流。新幹線開業により新潟県内の並行在来線区間では信越本線•北陸本線とも第3セクター•えちごトキめき鉄道となり、直江津駅もトキ鉄の管理駅となった。

 黒姫駅から新井駅まで乗車してきた「妙高」が6番線に先着していた。

 10年前のこの日はまだ特急列車が走っていたから直江津駅では名物の「鱈めし」の立ち売りも見ることができた。乗車していた快速「くびき野3号」は北陸本線からやってくる福井発(北越急行経由)越後湯沢行の特急「はくたか5号」を先行させるため10分ほどの停車時間があった(金沢•富山方面から「はくたか」に乗車してきた柏崎•長岡•新潟方面へ向かう乗客への乗り継ぎの便が図られていたのかもしれない)。

 国鉄〜JRの規程では快速列車は普通列車に分類される種別で、最高速度は特急列車より抑えられているが、この「くびき野」の直江津〜新潟間の途中停車駅は柿崎•柏崎•宮内•長岡•見附•東三条•加茂•新津のみで、特急「北越」とは宮内駅以外は停車駅が全て同じ•••つまり停車駅の少なさは特急列車と同等でしかも特急型車両での運転、半室グリーン車や指定席も連結された列車で、前述の通り最高速度こそ低く抑えられていたから特急「北越」に比べて10分ほど多くかかったが、利用者にとっては乗り得列車だった。北陸新幹線金沢開業で廃止され、特急料金が必要な特急「しらゆき」に生まれ変わった。


 JR西日本の681系特急「はくたか5号」。大阪と富山を結ぶ特急「サンダーバード」と同じ形式の車両だが、北陸新幹線金沢開業により「はくたか」は北陸新幹線の列車として生まれ変わり廃止、この車両を直江津駅で見ることもなくなってしまった。そして今年3月の北陸新幹線敦賀延伸により「サンダーバード」は大阪〜敦賀間に運転が短縮されてしまったからますます縁遠くなってしまった。




 柿崎〜鯨波間は日本海の海岸に沿って走るので車窓の景色が楽しい。


 柏崎駅で「くびき野3号」から下車。新潟の115系はまだ健在で、さまざまなタイプのカラーわ纏った編成を楽しめた。

 向こう側のホームに停車している115系は長野から新潟に転属となった編成で、信州色のまま走っていた。


 柏崎から折り返しは特急「北越4号」金沢行に乗車した。前面を大きく改造し、車内も大幅にリメイクした485系3000番台がやってきた。


 前述の「くびき野」と同じ485系とは思えないほど大胆に改造された車内。

 直江津では下車せず糸魚川まで乗車。


 直江津から西の北陸本線はJR西日本の路線なので駅名標も直江津駅などのJR東日本仕様とは異なる。


 国鉄急行型車両から改造(機器等を流用して車体を近郊型に新造して載せ替えた)された413系。国鉄時代末期、それまで機関車牽引による客車列車が主体だった北陸地区のローカル列車の近代化に寄与した。同様の例は東北の仙台•福島地区や九州などでも見られた。

 糸魚川駅から普通列車に乗り換えて親不知駅に向かった。

 車歴にこの車両の辿ってきた長い年月を思う。

 特急「はくたか8号」和倉温泉行。

 

 親不知駅。ここで下車したのは20年ぶりくらいである。


 復路は急行型の外観を残し、車内のみ413系に準じた改造を受けたクハ455-702を金沢方に連結した編成。


 これと同じような経緯を辿った(元は中間付随車として製造され、後に運転台を取り付けて制御車に改造された)クハ455-701が413系動力車ユニットとともに新潟県のえちごトキめき鉄道に譲渡されて現在も観光急行として土休日を中心に活躍を続けて動態保存されているのは喜ばしいことである。

 10年前の直江津駅はまだ国鉄型車両の宝庫だったと思う。






 普通列車「妙高」に転用された183•189系が特急列車時代には見向きもせず通過していた二本木駅にもスイッチバックで停車していた。


 黒姫駅に戻ってきた。この写真を見る限り、かつて信越本線の顔役だった189系特急「あさま」を彷彿とさせる。


2014年9月20日

 飯山駅。小さな仏閣風の駅舎はこじんまりとしたお寺が宗派を越えて建ち並ぶ「寺のまち」飯山の玄関口として似合っていた。



 この日から175日後•••飯山駅は少し離れたところに北陸新幹線との接続駅として移転、大きく変貌を遂げることになる。

 雁木が続く商店街。豪雪地帯ならではの風景である。

 笹寿司は子供の頃からの好物だ。


 東京への復路は国道292号線渋峠経由で帰った。


 10年経てばずいぶんと変わったところもあるが、少年時代から半世紀以上も変わらぬ風景もある。次の10年後にはどうなっているだろうか?




なつかしの写真

 

 

 

 

 

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