さっき撮ってきたばかりのホヤホヤの写真です。


えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン

妙高高原駅


 かつて数軒のお土産屋さんが並んでいた駅前には写真左側のお店だけが残っていましたが、右側に新しいお店ができていました。

 ここにはかつて「石田屋」というお店があって、ここで製造販売され国鉄信越本線時代には妙高高原駅の駅弁として日本交通公社(JTB)の時刻表にも載っていた「笹寿司」が私の好物でした。


 今回は列車には乗らない•••入場券を購入してホームへ向かいました。

 国鉄JR東日本信越本線時代には東京の上野駅と直江津駅や金沢駅を結ぶ特急「あさま」「白山」急行「妙高」などを中心に有効時間帯でないにもかかわらず夜行急行「越前」(→能登)も停車する駅でした。また名古屋駅から中央本線〜篠ノ井線を通って信越本線に入って新潟駅までを結んでいた急行「赤倉」や長野駅と新潟駅を結んでいた信越都市間急行「とがくし」など定期の優等列車は全て停車していた駅です。長いホームにその名残を感じることができます。


 新幹線が開業して主要幹線といえどもJRから経営分離されて第3セクター化されて短編成のローカル列車主体の運転体制となった東北本線や鹿児島本線の一部区間と同様にこの信越本線でも経営分離前の設備が過剰なものとなり、その維持が大きな負担となっているであろうことは想像に難くありません。


 駅は私が少年だった頃から大きな変化はありません。変わったのは冬から春はスキー、夏は避暑地として賑わったこの駅の賑わいが過去のものとなったことでしょうか•••。






 跨線橋の上から直江津方を眺めます。


 こちらは反対の長野方です。

 妙高高原駅は新潟県妙高市にありますが、駅を出てすぐに渡る関川を渡ると長野県信濃町に入るのでギリギリ新潟県に位置しています。




 懐かしい「シュプール号」の停止位置表示。まだ残っていたとは•••。

 妙高高原駅には首都圏から高崎線〜信越本線でやってくる「シュプール信越」、中京圏から中央本線〜篠ノ井線〜信越本線をやってくる「シュプール•ユーロ赤倉」、関西圏から湖西線•北陸本線経由でやってくる「シュプール妙高•志賀」がスキーシーズンに運転されていました。

 関西圏からやってくる「シュプール妙高•志賀」は485系7両+583系7両の14両編成という長大編成も存在し、14両編成の停止位置表示も残っていました。


 今回この駅にやってきた目的はというと、土休日を中心にえちごトキめき鉄道JR西日本から購入したクハ455+モハ412+クモハ413で運転される観光急行列車の前段として直江津駅と妙高高原駅の間を普通列車として1往復する列車をここで撮影しようと思ったからです。


 昨年の今頃、「朝から夕まで455」で直江津駅〜妙高高原駅〜直江津駅〜市振駅〜直江津駅〜市振駅〜直江津駅という行程で運転される列車に乗車した時に妙高高原駅折り返し時にホームに降りて撮影しているのですが、その時は1番線側から撮っただけでした。今回は2•3番線ホーム側からの写真と到着〜折り返し出発のシーンを動画にしようと思ったのです(列車がタイフォンを響かせて駆け抜けてゆくいつもの場所は妙高山がもくもくとした雲に覆われているのでやめました)。


 直江津方からクハ455-701を先頭にお目当ての列車がやってきました。

 なんと•••先頭のクハ455-701に取り付けられている愛称板は大型のもので表示は「玄海」
 玄海は言うまでもなく九州の玄海灘のことで、かつて名古屋〜博多間を結んでいた急行列車に命名されていました。その後は山陽新幹線の岡山開業などにより運転区間は変更されましたが、新幹線が博多まで開業して廃止されるまで走っていました。
 私が小学生時代を過ごした広島県福山市では学校から帰宅するときにいつも渡っていた踏切で見かけることがあった列車です。まさか遠く離れた新潟県で大型の愛称板ともども復刻した「玄海」を見ることができるとは思いませんでした。ただし、当時の急行列車の愛称板にはローマ字表記は無く、中央部分に小さな赤文字で急行と入っていたと記憶していますが•••。
 いずれにしても、普段は「立山」「ひめかわ」など北陸地方を国鉄時代に走っていた列車名やトキ鉄沿線に因んだ「妙高」や「赤倉」という愛称板を付けて走ることが多いこの観光急行にかつて山陽本線を九州へ向かっていた長距離急行列車の列車名が掲げられたことは私にとってちょっと懐かしいサプライズでありました。

 そして、国鉄時代末期には全国的に急行列車の特急格上げ施策がとられ、余剰となった急行型電車は機器を流用して車体を普通列車用に新製した413系などに改造され、それまで客車列車で機関車牽引だった地方の主要幹線における普通列車に転用されました。

 中京•関西地区と北陸を結んだ急行列車も多くが特急列車化されて413系に改造された車両は米原〜直江津間の広域運用されました。しかし、信越本線に入ることはありませんでした。




 直江津方先頭車クモハ413-6から響く昭和の国鉄型電車のブロワーの音が懐かしい•••鉄道に興味の無い人々にとっては騒音でしかないこの音は私にとっては旅情を唆られる音のひとつです。今の車両は低騒音で静かですね。

 カタカタというコンプレッサーの音も現代の車両より大きくて時代を感じさせます。



 わずか6分の折り返し時間で直江津駅へと向かっていきました。



 写真の一番奥の車が止まっているあたりにかつて臨時改札口があって、行楽シーズンには妙高高原駅始発の急行列車や特急列車の自由席に乗車する人々の長蛇の列ができていたものでした。この立ち位置くらいまで列が出来ていました。

 私も経験がありますが、少なくとも2時間前には駅に来て並んでいないと立ちっぱなしで通勤電車並みの混雑を耐えなくてはなりませんでした。急行だと上野駅まで5時間くらいかかっていたから大変でした。


 航空機の格安路線など無く庶民にとっては高嶺の花であり、高速道路も全線開通していたのは東名高速道路と名神高速道路くらいなもので自家用車だって所有率がぼちぼち増え始めていた時代、長距離移動の主役は鉄道でした。新幹線も東海道•山陽新幹線だけで、在来線には多くの特急•急行列車が運転されていましたが、特急列車だって贅沢な乗り物でした。

 今でこそ新幹線だって特急列車だってTシャツにGパンで気軽に乗れる時代ですが、あの頃は大人はそれなりの服装に身を包み、子供は他所行きの服を着せられていたものでした。若者は急行列車利用が一般的で、「若い者が特急なんて贅沢」などと言われていた時代でした。


 世の中は便利になり、航空機での移動も安くなって移動時間も減り、高速道路を自家用車で移動することが当たり前になって他人との接点が少なくなって久しいですが、その弊害のように他人への思いやりが少なくなって以前では考えられないようなトラブルに発展することも多くなりましたね。


 昔はこの道もありませんでした。駅前から国道18号線に直線に伸びる道路。


 以前はこちらの道路から国道に出ていました。


 最後に、昭和40年代に私が急行「玄海」を下校中によく見かけていた通学路の踏切•••広島県福山市の山陽本線•大門駅近くの踏切の写真です。今年の早春に半世紀ぶりに訪れた時に撮りました。






最近撮った写真は

 

 

 

 

 

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