福山駅に戻って向かったのは、この駅の象徴ともいえる福山城。


 JR西日本山陽本線福山駅の北口となる福山城口から目の前の福山城へ登って振り返り227系Uraraを撮影。手前の線路は福塩線で写真の左奥にホームがある。

 国鉄時代末期に新しい105系に置き換えられた福塩線の福山〜府中間の電化区間だが、私が福山に住んでいた少年時代は戦前に製造された旧型国電が大都市圏から追われて余生を過ごしていた。小学生の中学年くらいまでは「チョコレート色」とか「ブドウ色」とか表現される茶色い車体だったが、後に青く塗り替えられて走っていた。その後も大都市近郊を走っていた70系電車が流れてきたのだが、その頃には東京に引っ越していたからその様子は見たことはない。

 1980年代になって新製配置された105系が現在も活躍しているわけだが、これも既に40年が経過している。

 福山城は幼稚園の頃や小学生のときに何度も来ていた場所である。

 江戸時代に「一国一城」制度となって新しく築城することは原則認められなかったが、山陽道に近い神辺(かんなべ)城は戦国時代に幾度も落城した経緯があったことや海運が発達していた鞆の浦への利便性なども考慮して初代福山藩主となった水野勝成(徳川譜代大名で徳川家康の従兄弟)の上申により特別に認められた城郭である。

 話は逸れるが、水野勝成は父親と対立して一時は出奔して豊臣家に仕えたが、後に父に謝罪して徳川の臣下に戻ったと伝わるが、真相はどうだっただろうか•••徳川家康の家臣が徳川家から飛び出して豊臣家に仕えたという例は多く、「スパイ」の役目を果たしていたとの説もあり、豊臣秀吉没後には豊臣家を離れて家康の下に戻っている。

 家康が江戸江戸に幕府を開府したとはいえ、関ヶ原の戦いの折には東軍(徳川方)に味方をして勢力を温存していた豊臣恩顧の外様大名は多く、それらの多くは西国に配置された。関ヶ原の時には西軍の本人の意思とは裏腹に総大将にまつりあげられた毛利輝元が山陽•山陰の多くを没収されて本領の広島も取り上げられたあげく周防•長門(ともに現代の山口県)二ヶ国に押し込められたものの、毛利家の領地であった安芸•備後(ともに現代の広島県)を与えられたのは秀吉子飼いの大名である福島正則だった。そして正則失脚後に広島に入ったのがこれも秀吉子飼いの大名であった浅野長政の息子で関ヶ原の折には黒田長政(黒田如水の息子)ともども家康のために暗躍(?)した浅野幸長。

 家康に従ったとはいえ油断のならない豊臣恩顧の大名たちは中国•四国•九州に多く追いやられ、それらの大名の抑えとして睨みをきかせたのが福山城だったのである。



 幕末には尊王攘夷を掲げる長州藩などの激しい攻撃に晒されたが、明治の世になっても破却されることはなく残されていた。しかし、太平洋戦争で天守閣は空襲により焼失してしまい、残念なことに現存天守とはなっていない。復元天守である。

 天守閣最上階から福山駅を眺める。

 福塩線の列車が見える。福山駅は福山城の城郭内に造られた駅だ。


 城から駅に戻ってDOUTORで時間を潰してから新幹線ホームに上がると500系「こだま」が停車していた。

 福山に着いた時にはハローキティ編成を見たが、やはりこのオリジナルデザインの方がシャープでいいと思う。







 九州新幹線「さくら」もやってきた。同じスタイルばかりの東海道新幹線と違って山陽新幹線は多様な役者が見られて楽しい。


 次回は最終回です。