厳島神社(といっても安芸の宮島ではない)を背に神社の前の道路を横切ってかつて田圃が広がっていたところを進む。
少年時代は田起こしする前のレンゲの花の彩りや苗代〜田植え、そして青田から稲穂が垂れる黄金色と季節感が感じられたこの辺りだが、今ではそれも感じられそうにない。
左方向に上り坂•••少年時代はもっと細くて舗装されていない道だった気がする。
奥の竹藪のところには古い土壁の朽ち果てた小さな空き家があって
「お化けが出る」
と、私たち子供たちは信じ込んでいた。
いつだったか、上級生たちと10人くらいで好奇心から中に入ってみたら白黒のかなり古い遺影が飾ってあったのがちょっと怖かったことを覚えている。
お化けが出るという噂は、朽ちた家屋で危険なことや浮浪者が棲みついているかもしれないこと、変質者などによる犯罪に遭わないようにするために大人たちが意図的に流していたのではないかと今は思っている。その家は私が東京に引っ越す前には既に解体された。
通学路はこの道ではなく右へ折れるのでそちらへ進むことにする。
こちらは製綿所で、まだ建物が残っているとは思わなかった。半世紀前の当時でさえそれほど新しい建物ではなかった気がするので、築何十年経つのだろうか•••。
少し歩いたところにある十字路を左折すると坂道となる。
けっこう長い坂だ。引っ越してきたばかりの頃は舗装もされていなくて雨の日などは大変だった。
坂を上りきった十字路の角にあった理容店。若い夫婦でやっていた床屋さんで、みんなここで髪を刈ってもらっていた。
もうやっていないのかもしれないが、看板が残っているとは思わなかった。斜向かいは現在では住宅地となっているが、当時は原っぱで子供たちの遊び場だったからソフトボールやサッカーなどをやっていると床屋のおじさんが入ってきてよく遊び相手になってくれたことを覚えている。
床屋さんの前を右に折れると写真左側の柵がしてあるところは貯水池となっていたが、現在は埋め立てられていた。
池は写真左方向へ3つ並んでいたが、いちばんまともだったのはこの道路から見て一番手前の池だけで、あとの2つは不法投棄の場と化していて汚くて臭かった。この先の坂道の左側が父が勤務する会社の社宅があったところだ(即ち私が少年時代を過ごした家だ)。右側には火力発電所に関連する会社の大きな社宅があったが住宅地に変わっていた。しかしながら•••私が住んでいたところは建物が残っていた !
父が勤務していた会社の社宅だったが、現在は民間のアパートに変わっているようだ。
この辺りは私が住んでいた頃は戸建て住宅はあまりなくて、日本鋼管(現•JFEスチール)の関連企業や大手物流企業などの社宅がポツポツとあったくらいで、原っぱが点在するところで福山市に含まれるといっても市街地からは遠い田舎だった。
半世紀経過したいま、これらの社宅は全て姿を消して戸建て住宅やアパートに変わっているのに、私が住んでいた社宅の建物が所有者が変わったとはいえ残っているのは奇跡的なのかもしれない。ただ、敷地は舗装されて駐車スペースとなり、屋根付き自転車置き場などは姿を消している。写真左側にはブランコや滑り台、鉄棒や砂場など社宅の子供たちが遊べるようになっていたが、これも姿を消してしまっている。
父からよく殴られた(殴られるようなことばかりをしていた箸にも棒にもかからぬクソガキだったのだから仕方ない)ことが走馬灯のように脳裏を過ぎる。
前述した不法投棄の場と化した異臭を放つ貯水池は児童公園に生まれ変わっていた。
少し歩くとすぐに岡山県笠岡市に入る。
住んでいた場所は高台だったから少し歩くと瀬戸内海を眺められる場所があった。見下ろす先は茂平(もびら)という集落で、そこの防波堤に友達とよくハゼ釣りに行っていたものだ。
視界の先には神島(こうのしま)という島があって、笠岡市街とは橋で繋がっていた。神島は日本鋼管福山製鉄所の拡張などに伴う埋め立て工事で現在は陸続きとなっている。
海が眺められたところも公園になっていた。
これほどの住宅街となっているとは思わなかったが、景観はすっかり損なわれてしまったことに哀しいような不思議な感傷に包まれる。
私が住んでいた頃から山を切り崩していたが、山はすっかり無くなっていた。現在でも採石場となっているようだ。
ここは崖のような斜面となっていてクヌギなどの雑木林だった。ここも遊び場だったところである。雑木林はわずかに残っていて微かだが面影を残していた。
大門駅や通っていた小学校がある方向を眺める。小学生の頃はずいぶん遠く感じたものだが、還暦となったいま訪れてもさほどの遠さは感じなかった。とはいっても雨の日も風の日も毎日往復するとなれば嫌気がさすだろう。そんな年齢である。
冲下に戻って厳島神社にお詣りした。
大門駅へ戻る時は通学路ではなく坂を下って鋼管道路の方へ直進した。なぜかといえば、昼近くなってお腹が空いてきたからだ。
鋼管道路に出て見つけた町中華のお店に入ってみた。
中華丼をオーダーした。
年季の入ったお店だが、私が子供の頃にあった記憶は無い。
食事を終えてから会計を済ませる時に
「こちらのお店はもう長いのですか?」
と訊くと
「47年になります」
とのこと。私が東京に引っ越したのが49年前だからその少しあとに開店したことになる。
以前大門町に住んでいて半世紀ぶりに東京の足立区から訪れたことを話すと
「足立区ですか ! 私は錦糸町(東京都江東区)で生まれたんです。3歳の時に福山に来たんです」
「じゃあ小学校は大津野小学校ですか?」
「はい」
おそらく私より10年くらい後輩になるわけだ。
ちなみに大津野というのはこの辺りの大門•津之下•野々浜という部落の文字を合わせたもの。現在では部落とは言わないかもしれないが、当時は通学区域などを言う時に津之下部落とか野々浜部落とか言っていた。
食事を済ませて鋼管道路を歩いて大門駅へ向かった。
次回に続きます。


















