半世紀前に通っていた小学校から住んでいたところまでの通学路を辿って歩き続ける。 

 三角公園の前を通り過ぎると広い道に出るところでそれまで道に並行していた小川を渡って左の道へ入る。


 私が小学生の頃には柵は無くて、今から思えば危ないところだったのだろうが、当時はそんな意識は無かった。もちろん体も小さかったから50年後に大人の私が通って感じたのは

(あの頃はもっと川と道路の高低差があった)


 あの当時と身長は50cm以上違うからそのような印象を覚えるのだろうか•••?


 数十メートル歩いたらまたさっきの広い道に出るのだが、ここからまた左へ折れる。

 柵が無くて小川に転落する恐れもあった細い道を通学路として指定していたのは広い道にも歩道が無いから交通面での安全を考慮してのことだったのだろう。

 右が広い道で、小川を挟んで対向車線とは隔てられている。ここを左へ折れるのだが、一面の田圃だったところにはずいぶん住宅や会社の社屋が建ち並んで、あの頃の面影は薄れていた。

 ここを左へ進むと書道教室があって、字が下手くそな私はその書道教室に通わされていた。さらに私は左利きなので右手で書かなくてはならない毛筆は大の苦手で、硯や墨汁が入った重たい書道道具を持って歩いてくるのが堪らなく嫌だったことを覚えている。あの時•••もっと辛抱して長く続けていたらもう少しマシな字をかける大人になっていたかもしれない。

 家屋は建て替えられていると思うが、おそらくここが書道教室だったところだろう•••あの時の先生の苗字の表札が掛かっていた。

 それにしてもよく覚えているものだと思う。大人になってからのことは忘れていることも多いのに少年時代のことはいつまでも記憶に残っているのが不思議だ。学校と自宅の間は片道2.6kmあったのだが、道も間違えることなくちゃんと覚えている。

 このあたりの人家の奥には小高い里山のようになっていてミカン畑となっていたと思う。よく畑の中の道を歩いて帰ったりしたものだ。

 書道教室があったところを通り過ぎるて右折すると住宅街が広がっていた。このあたりは田圃が広がる田園地帯だった。小学2年生の春•••1年生の時からの同級生で家も近かった初恋の女の子とよく一緒に帰って田起こしが始まる前に一面に生えているレンゲの花を摘んでは蜜を吸いながら歩いたものである。だんだんと成長するにしたがってこの女の子も含めて女子とは距離が広がって男子は男子、女子は女子だけで遊ぶようになったが、誕生日のパーティーにはいつも呼んでくれていた。

 この子も私が東京に引っ越すのとほぼ同じ頃に岩国(山口県)に引っ越すのだと言っていた。

 住宅は増えたが、ところどころに懐かしい名残を感じながら歩き続ける。

 この先の交差点を左折する。


 少し歩いたところにあるのは厳島神社。神社の前には冲下(おきしも)というバス停があって、福山市街地へ行く時はここから路線バスに乗っていった。

 バス停には「井笠バス」と書かれているが、私が住んでいた頃は中国バスも走っていたはずだ。

 かつて住んでいた場所が近づいてきた。


 続きます。