福山駅の到着を知らせるアナウンスが流れて「のぞみ54号」は速度を落とします。



 福山駅に到着したのと同時に下り線を東京発博多行「のぞみ43号」が通過していきました。

 






 小学生の時まで住んでいた広島県福山市。福山駅は在来線の山陽本線•福塩線が2階、山陽新幹線が3階にホームがあります。駅のすぐ北側には福山城があり、おそらく新幹線の駅に一番近い城趾ではないでしょうか•••。子供の頃にはよく来た思い出があります。

 福山城は復元された天守閣です。江戸時代には西国の外様大名への押さえとして譜代大名の水野勝成が初代藩主として配置されました。江戸幕府の時代となって新たな城の築城が禁止された中で備後国の政庁を内陸部の神辺(かんなべ)から海が近い福山に移した際、一国一城令発令後に特別に大規模な築城を幕府に認められた最後の城郭のひとつでもあります。

 水野勝成は新田開発など藩政には熱心だったようで、勝成没後もその精神は代々継承されて福山藩は潤っていったようですが、父の急死により跡を継いだ5代目も幼くして亡くなり福山藩としての水野家は断絶(譜代の名門だったため勝成の孫が能登国西谷藩主となりのちに下総国結城藩主となったため家名は存続しました。

 福山藩は一旦幕府直轄地となりますが、のちに松平忠雅、さらに阿部家が福山藩主と変遷して幕末を迎えます。阿部家は幕府に老中を何人も輩出(有名なのは阿部正弘ですね)するほど幕閣の要にある家柄でしたが、ほとんど江戸に在府して藩政にはあまり熱心ではなかったようで藩の財政は破綻してしまいます。

 幕末には藩の財政を立て直すために新たな埋め立てや新田開発を行いますが、それが実を結んだのは明治になってからだと言われます。

 むしろ現代の福山市が広島県第二の都市となったのは日本鋼管(→NKK→JFEスチール)の製鉄所が建設されたことによるものかもしれません。


 水野勝成以降続いた水野家時代の藩政は行き届いていたようで、私が通っていた幼稚園の園歌の歌詞の中にも「♪みずのかつなりさまが〜」という一節があったことを記憶しています。


 機会があれば幼少期を過ごした福山を訪れてかつての通学路などを歩いてみたいものですが、Googleマップのストリートビューや航空写真で検索してみると半世紀ほど経過した現在ではあまりにも風景が変わってしまっているので、むしろ少年時代の思い出として大切にあの頃の風景を胸の奥深くに仕舞っておいた方がいいのかもしれません。


 話しが逸れてしまいました。

 列車は福山駅を発車して次の停車駅である岡山駅へお向かいます。




 トンネル内で「さくら567号」鹿児島中央行とすれ違いました。


 列車は広島県から岡山県へと入りました。








最近撮った写真は

 

 

 

 

 

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