「父ちゃん、『母ちゃんクイズ•新春スペシャル第二弾』の解答状況はまとまったかえ❓」


「先日TVKテレビで放映された池波正太郎の小説を題材に製作されたドラマに触発された母ちゃんからの出題は列車の車窓から見える『池波文学にゆかりある』お城を当てていただくというものでした」

「正解は上田城でしたよう❗️」



JR東日本北陸新幹線上田駅です。長野県上田市にあるこの駅を下り列車なら発車後すぐに右側車窓、上り列車なら到着直前に左側車窓に上田城を見ることができます。上田駅には停まらない『かがやき』やデータイムの『はくたか』ではあっという間に通過してしまうので注意して見ていなくてはなりませんので見落としてしまうかもしれません」


「父ちゃん、そんなことはどうでもいいから解答の解説をしておくれよう❗️」


上田城は戦国時代末期に信濃国小県郡(現在の長野県上田市や小県郡)上野国沼田と吾妻郡(現在の群馬県沼田市からみなかみ町、吾妻郡)一帯を勢力下に収めていた真田昌幸が築いた城、当時は現在の城趾より広く上田駅あたりも城郭に含まれていました。戦闘的な機能を備えた城で、徳川家康が同盟を組んでいた娘婿であり真田氏と上州の領地をめぐって敵対していた小田原の北条氏直の請いを受け入れて一方的に真田昌幸に対し沼田をはじめとする真田領の割譲を迫ったのですが、これに反抗した昌幸に対し激怒した家康は2万の大軍を上田に差し向けて真田を一揉みに潰しにかかりました。これに対し昌幸はわずか5千の兵力で長男の信幸(のちに信之と改名)•次男の信繁(後世になって講談などで真田幸村として現代に伝わるヒーローとして扱われた人物です)とともに徹底したゲリラ戦で徳川軍に屈辱的な大敗を被らせました。家康本人は出陣しなかったとはいえこの戦いで真田の名は天下に知られることになり羽柴秀吉(豊臣秀吉)が仲裁に入って昌幸は家康と和睦します。そして家康は重臣の中でも徳川四天王として信頼の厚かった本多忠勝の娘である小松姫を養女として自分の娘としての格を与えたうえで信幸に嫁がせます。家康は信幸の人物を高く評価していたようで、信幸と小松の婚姻により真田との結びつきを深めようとします。しかし後年、秀吉が死去したことにより勃発した関ヶ原の戦いの時に昌幸は信繁とともに西軍に付いて上田城に籠城して家康に背きます。会津の上杉征伐に向かっていた家康は下野(栃木県)の犬伏(現代の小山市)から引き返して美濃(岐阜県)の関ヶ原で石田三成率いる西軍と激突します。このとき徳川の第二軍を率いたのちに徳川二代将軍となる徳川秀忠は東山道を進み上田城を囲んで昌幸に降伏を迫りますが撥ねつけられて上田城を攻めますが、またも徳川軍は昌幸に痛めつけられることとなり上田攻撃を諦めて関ヶ原へ向かいますが、途中で関ヶ原の戦いの決着がついてしまい戦いに間に合わず家康の叱責を被ることになります。昌幸•信繁親子は破れなかったものの西軍が敗れたため紀州九度山に流されて上田城は徳川方により戦闘施設を破却されてしまいます。長男の信幸はこのとき家康に従っていたため父の昌幸や弟の信繁と運命を分つことになります。のちに大坂夏の陣で豊臣家が滅亡して徳川の天下が完全なものとなったときに上田城は信幸に返還されます。しかし、家康死去後に信之(信幸から改名)は同じ信濃の松代(現代の長野市松代町)に配置換えとなり上田城は真田のものではなくなりました。真田信之は弟の信繁が後世になって大坂の陣での活躍が講談になるなどして人気を博したのに対しイメージが地味ですが、昌幸が上田城にいる間は沼田城を堅固な城に築城し、沼田領の治世に努めて最終的には明治維新まで続く松代藩の礎を築くなど行政における手腕もあり、3代目将軍徳川家光が高齢となった信之の隠居願いを『豆州(信之の官名は伊豆守)は国の宝ゆえ隠居はならぬ』と言ってなかなか隠居を許さなかったとも伝えられています。真田信之は92才という当時では驚異的な長生きをしました」


「父ちゃん、そんな長ったらしい解説をみなさんがちゃんと読むとでとおもってるのかえ❓」


(自分が解説しろって言ったくせに•••アセアセ


「ご解答コメントありがとうございました♪」


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 興味がないので知りません。