25年前の今日を以て、整備新幹線計画路線である北陸新幹線(高崎~長野~金沢~大阪)のうち高崎~長野間暫定開業を翌日に控え、並行在来線となる信越本線・横川(群馬県安中市)~軽井沢(長野県北佐久郡軽井沢町)間が廃止され、軽井沢~篠ノ井(長野市)間JR東日本から経営分離されて第三セクターしなの鉄道として生まれ変わることに伴い東京の上野駅長野駅・妙高高原駅・直江津駅・金沢駅などを結ぶ優等列車が最終日を迎えました。

    特急「あさま」は翌10月1日から開業する新幹線に生まれ変わり、特急「白山」「そよかぜ」は廃止されて列車名はお蔵入り、夜行の急行「能登」は生き残りましたが、上越線経由となりました。

    横川~軽井沢間は廃止により線路自体が無くなってしまい、長い歴史に終止符を打つこととなりました。

    国鉄時代の昭和53年10月ダイヤ改正で登場したイラストマーク。「あさま」はもちろん群馬・長野県境に鎮座する火山浅間山からの命名。
    横川駅と軽井沢駅の間は碓氷峠が介在し、66.7‰(パーミル)という国鉄~JR線では全国一の急勾配だったためアプト式という機関車の動輪の車軸に取り付けられた歯車と左右のレールの間に敷かれた凹凸型のラックレールを噛み合わせて峠を往き来していましたが、所要時分がかかることや増大する旅客需要に対応するため複線化し、昭和38年(1963年)に通常の運転方式と同じ粘着式に切り替えられました。
    その時にデビューしたのがEF63形電気機関車で碓氷峠ですべての列車に対して峠の麓側に連結されて横川~軽井沢間のみを働き場所としました。
    しかし、鉄道にとっては崖のような急勾配ですから電車では最大8両編成、軽量の客車でも10両編成までしか組めず、電車の制御を一括して機関車側で制御する協調運転を行える169系急行型電車が開発されて最大12両編成まで組成できるようになり、その技術を応用してのちに直流/交流50Hz/60Hz対応の489系特急型電車、直流専用の189系特急型電車がデビューして信越本線の輸送力向上が実現します。

    国鉄分割民営化によりJR東日本の路線となった信越本線には各地の特急列車同様に国鉄型電車をリフレッシュ改造した車両が行き交うことになり、特急「あさま」はシックなカラーリングに生まれ変わりました。
    整備新幹線計画のうち北陸新幹線は当初高崎~軽井沢間を既存の新幹線同様のフル規格、軽井沢~長野~上越(当時の仮称)間を秋田新幹線や山形新幹線のように在来線の線路幅を改軌して直通させるミニ新幹線方式、北陸地方について魚津~富山~金沢間は在来線を活用するスーパー特急方式とするなどさまざまな案が検討されていましたが、現在のように全線フル規格として決定したのは平成10年(1998年)冬季五輪に立候補していた長野県に開催地が決定したことも大きな要因だったかもしれません。

    そしてオリンピック開催直前ともいえる25年前の平成9年(1997年)10月1日に北陸新幹線(当時は長野行新幹線と称されていました)の高崎~長野間が先行開業することになりました。そして前日である25年前の今日信越本線横川~軽井沢間廃止と軽井沢~篠ノ井間第三セクター化という、その後の整備新幹線計画により建設された東北新幹線盛岡以北や北海道新幹線、九州新幹線の並行在来線のJRからの切り離しへの前例となってしまったのです。

    もう25年も経過しているとは思えないほど今でも鮮明に記憶に残る信越本線の一部区間の廃止…あのときにはかなり大々的に報道されていましたし、多くの鉄道ファンのネガティブな叫声も空しく計画通りの結果となりました。

    信州…とりわけ佐久・上田地域をはじめとする東信地域や長野市以北の北信地域、新潟県上越地域出身の方々で東京に出てきて生活の基盤を築かれていた方々や学生さんにとってそれぞれの思い入れもあったであろう信越本線…中でも碓氷峠の存在は東京での日々と故郷とを分ける線だったことでしょう。
    私は信州出身ではありませんが、幼少の頃から親戚宅へ行くたびに利用していた路線であり、一番愛着があった思い出の路線でした。