特急「(ワイドビュー)しなの13号」篠ノ井駅を発車、ここからは信越本線に入る。

 信越本線に入るのだが、長野県内で信越本線が通っているのは長野市内の篠ノ井~長野間だけ。
 信越本線の「信」は「信濃」、「鉞」は越後であることは言うまでもないが、JR東日本信越本線としての路線は現在は群馬県内の高崎~横川間・長野県内の篠ノ井~長野間・新潟県内の直江津~新潟間に分断されている。もちろん線路は繋がっていた。
 過去形なのは北陸新幹線が平成9年(1997年)10月1日に長野新幹線(当初は長野行新幹線)という通称で高崎~長野間が開業(列車は東京~大宮間は東北新幹線、大宮~高崎間は上越新幹線を走行して東京~長野間を運行)、並行在来線の長距離優等列車の乗客は新幹線にシフトすることからこれに伴って特急「あさま」(上野~長野・直江津)特急「白山」(上野~金沢)特急「そよかぜ」(上野~中軽井沢)・夜行の急行「能登」(上野~福井)、そして長野県と新潟県を結んでいた昼行の地域間急行「赤倉」といった優等列車がすべて前日の9月30日を以て全て廃止された。そして碓氷峠(群馬県側の横川駅と長野県側の軽井沢駅の間に介在する)の最も急なところにおいて66.7‰(1000mの水平距離に対し、66.7mの標高差があるということ)という国鉄~JR線において全国一急な勾配を通過するために全列車が横川・軽井沢両駅に停車してこの峠のためだけに製造された電気機関車を峠の麓(横川側)に連結(それだけではなく、この急勾配を通過するために車両にかかる負担に耐えられるように台枠や連結器の強化と車両同士の屈折による連結器の破損防止のために台車の空気ばねの空気を強制的にパンクさせて走行させる装備がない車両は碓氷峠通過禁止だった)するコストや安全管理のための維持経費が莫大であるということから横川~軽井沢間が廃止され、軽井沢~篠ノ井間はJR東日本から経営分離されて第三セクターしなの鉄道に引き継がれた。

 余談だが、碓氷峠では列車の編成両数も電車では最大8両、機関車牽引の軽量客車でも最大10両までに制限されており、これが国際的避暑地である軽井沢をはじめ多くの避暑地やスキー場、温泉を抱える信越本線の輸送力のネックになっていた。
 そのため横川~軽井沢間において横川方に補機として連結するEF63型電気機関車から一括して電車側の制御も行う協調運転方式が開発され、山岳路線向けの165系急行型直流電車をベースに協調運転対応とした169系が開発され、最大12両編成で碓氷峠を通過できるようになり、急行「妙高」「信州」で輸送力を発揮した。
 その実績を基に昼行客車急行として残っていた急行「白山」の特急格上げに際し485系特急型交直両用電車をベースとして489系183系特急型直流電車をベースに189系が導入されて信越本線の輸送力向上に貢献した。

 この時点ではまだ篠ノ井~新潟間信越本線として繋がっていたし、長野~新潟間には廃止された急行「赤倉」の発展型ともいえる特急「みのり」が運転されていた時期もあったが、北陸新幹線長野~金沢間が延伸開業すると長野~妙高高原間しなの鉄道妙高高原~直江津間えちごトキめき鉄道に移管されて信越本線は現在のようにズタズタに寸断されたのである。
 ちなみに並行在来線のうちなぜ篠ノ井~長野間が第三セクター化されずJR東日本のまま残ったかというと篠ノ井線や中央本線から長野駅までやってくる列車が多いためである。


 篠ノ井駅を発車してほどなくしなの鉄道115系の普通列車軽井沢行とすれ違う。
 JR東日本新潟支社管内村上駅以南においてすっかりローカル列車の主役となったE129系をベースとした新型車両SR1系に置き換えが進むしなの鉄道。この光景が見られなくなるのもそう遠い将来のことではないだろう。
 篠ノ井駅から長野駅を経て現在はしなの鉄道北しなの線の駅となっている北長野駅までは北陸新幹線が並行する。
 今井駅を通過する。


 今井駅は平成9年(1997年)10月1日…つまり長野まで新幹線運転を開始した日に開業した駅だ。だから歴史は、まだ浅い。
 歴史が長い駅では普通列車といえども長い編成を組んでいた時代の名残でホームの全長もかなり長いが、新しい駅はそれほど長くは造られていない。

 続いて通過するのは川中島駅


 川中島駅は大正6年(1917年)に犀川信号場から駅に昇格した。
 川中島は千曲川に犀川が合流する地点。
 川中島といえば甲斐(山梨県)の武田信玄と越後(新潟県)の上杉謙信が五回に渡って戦った場所として有名だが、諏訪や伊那、木曽といった中南信を勢力下に収めた信玄は信濃を完全に掌握するために佐久などの東信へと進出、さらに北上を進めていた。
 信玄に圧迫された信州の豪族たちの多くは謙信を頼って越後に落ち延びて失地回復の機会を伺っていた。逆に真田氏のようにこれらの豪族たちに圧迫を受けていたさらに小勢力の豪族のように信玄を頼って配下となった豪族も存在した。
 つまり川中島を含む善光寺平は信濃の多くを勢力下に置いた武田方と北信濃の豪族たちが頼った上杉方との緩衝地帯だったわけだ。
 結局決着はつかず、一旦甲斐に戻った信玄は伊那から遠江(静岡県)へ進軍、織田信長と同盟を結んで浜松を守っていた若き時代の徳川家康を圧迫して三方原の戦いで徳川軍を撃破して三河(愛知県)の鳳来寺まで進んでいたところで信玄が病に倒れ、甲斐に戻る途中で信州・駒場で死去した(と、伝わる)。

 死に臨んで跡継ぎとなる勝頼を枕元に呼んだ信玄は
「天下統一のために都を目指していたがこのようなことになってしまった。よいか…この父の真似をしようと思うな。父亡きあとは越後の謙信を頼れ。わしは図らずも謙信と争っていたが、あの男なら心を込めて頼れば必ず力になってくれる」
と、言い遺したという。
 武田勝頼は武将としては勇猛果敢だったが、偉大な父ほどの政治力に欠けていたためやがて織田・徳川連合軍から圧迫されとうとう滅亡してしまうわけだが…。
 父の遺言通り謙信を頼ったのはもうどうにもならない状態になってしまってからだった。あまりにも遅すぎたのである。
 勇猛果敢なだけでは治世は務まらぬ…それを見抜いていたからこそ「義」を重んじていた謙信の男気を頼るよう言い遺したものか…。
 勝頼からの使者を前にして
「このようなことになるのなら初めから春信(信玄)殿と手を結んでおけばよかったものを…」
と呟いたとか…。
 
 俗に「英雄並び立たず」と言うが、武田信玄と上杉謙信…戦国時代随一の二人の英雄が腹を打ち割って盃を交わして語り合えば信長も秀吉も家康もあったものではなかっただろう。


 通過する川中島駅のホームの彼方に犀川橋梁が見える。
 少年時代…上野駅から信越本線の列車で長野県の親戚宅へ遊びに行くとき、この橋梁を渡るともうすぐ親戚や従兄弟に会えるというワクワク感が高まってきたものだった。



 犀川橋梁の先のカーブは撮影名所だった。

 最後の通過駅は安茂里(あもり)駅。この駅も比較的歴史の浅い駅で、昭和60年(1985年)開業だから国鉄時代末期に設置された駅である。

 いよいよ終点の長野駅に到着する。


 少年時代…まだ非電化だった篠ノ井線~中央西線で乗った旧型客車の急行「ちくま」や高校時代に初めて乗車した381系振子式特急型直流電車による特急「しなの」の記憶を辿りながらの旅のメインの部分ははこれで終わった。

 ここまでこの「追憶を辿って」シリーズを全て読んでいただいて私の旅にお付き合いいただいた方はいらっしゃったでしょうか?
 お金の無駄遣いのようにも感じられる方もたくさんいらっしゃるかもしれません。
 しかし、こんな休日の過ごし方というのもたまにはいいものです。
 先日、深夜勤務を終えて朝の8時に退勤するときに職場の部下に
「これから日本橋の富山県のアンテナショップに行くつもりだがまだ時間が早いから上野で朝ラ-食べてコーヒーでも飲んで時間潰してから行くことにするかな…」
なんて話したら
「いいなぁ、そういう時間の過ごし方…」
なんて言われましたが、普段から休日はこれといった目的を立てなくてもこんな過ごし方が多い私であることにふと気付きました。
 無意識にやっていたことですが、もしかしたら最高に贅沢な時間の過ごし方なのかもしれません。


 長野駅からはゆっくりすることもなく母ちゃんへのお土産Beni Beni「カスタードアップルパイ」を急いで買って北陸新幹線の切符を買って新幹線ホームへ…。コレを買って帰らないと私の記事を検閲した母ちゃん
「長野まで行ってカスタードアップルパイを買ってこなかったのかえ?」
と、怒られますからね…。
 
「はくたか568号」に乗車。
 晴れているけれど小雪舞う長野駅を後にします。








 篠ノ井線の姨捨駅付近で見下ろした善光寺平を新幹線のしゃそうから眺めながら東京へ戻ります。

 佐久平から軽井沢付近では浅間山もくっきりと眺めることができました。

 軽井沢駅付近での浅間山。

 今回の徘徊録はこれで完結です。