先日東京の京王電鉄京王線を走行中の電車内で起こった事件。
全く無関係な他人をナイフで刺して車内に何かを撒いて火をつけるという犯人の身勝手な行為は断じて許されるべきものではありません。
この事件については様々な意見があるでしょうから私の拙ブログで検証や事件についての批判をするつもりはありません。
しかしながら、この種の無差別殺人を目的とした(現時点で報道されている犯人の供述)事件が発生したあとのメディアの報道を視聴・聴取などしていると、各社の解説委員の言動に疑問を抱かざるを得ません。
今回の事件についての報道全てを見聞きしているわけではないから頭から否定するつもりはありませんが、不特定多数の視聴者・聴取者・読者に発信しているわけだから言葉は慎重に選んで発言するべきだと思います。
さきほど車を運転中に聴いていた18時からのNHKラジオのニュースで
「今回の事件で京王電鉄は『乗客が車内から逃げようとしてドアコックを引いたため強制的に電車が減速して国領駅のホームドアと電車のドアがずれた位置で停車してしまったため、ドアを開けると乗客が転落してしまう危険があったのでドアを開けることができなかった』と言っているが、果たしてその車掌と京王電鉄の判断は正しかったのか検証しなくてはならない。ドアを開けなかったから乗客は上半分くらいしか開かない窓から這い出すようにして逃げることを余儀なくされた。鉄道会社は重く受け止めなくてはならない」
と、解説委員が言っていました。
正論のようにも聞こえますが、何を踏まえて公共の電波を使ってこれを述べたのか?
国領駅にはホームドアが設置されていたようですが、この装置の高さはご存知の通り大人の胸よりも高い位置まであり、ホームの幅を確保するために最大限ホームギリギリの位置に設置されているわけです。今回のようにホームドアの位置と車両の扉の位置が一致しないところで停止してしまった場合に電車のドアを開けて乗り越えて逃げる、あるいはホームドアも開けて車両とホームドアの装置との間のわずかな隙間を伝って逃げた方が安全だったのかということを瞬時に判断しなくてはならなかった状況下においてあたかも当該乗務員や鉄道会社の対応が悪かったかのような報道を軽々しく放送したNHK(だけではないでしょうが…)は拙速だった印象が拭えません。

非常通話装置も車内の喧騒のあまりよく聞き取れなかったとも報道されています。
鉄道車両や自動車、航空機、船舶などに限らず身の回りにある生活用品全てにおいて昔から現在に至るまで思いもしなかった事故や事件による反省を踏まえて改善や改良が進められているわけで、それは永遠に発展途上にあるわけです。
鉄道車両で見れば多くの犠牲者を出した昭和26年(1951年)に発生した車両火災事故により、それまで三段式窓だった通勤型電車の側窓を窓から脱出できるように二段式(現代では一段下降式がほとんどです)に改めたり、隣の車両に逃げられるように貫通路を設けたり、まだ多かった木造車両の車体を全鋼製車体に載せ変えたりして現在まで常に改良が加え続けられているわけです。
最近では通勤型車両でも取り付けが急速に進められている防犯カメラも平成17年(2007年)にJR西日本北陸本線の特急「サンダーバード」の走行中の車内で発生した強姦事件が発端だったと思います。
この事件では異変に気付いていた乗客が見て見ぬふりをしていたことについて批判めいた論調がメディアを賑わわせていましたが、その乗客たちを批判した解説委員や評論家はその場に居合わせたとしたら体を張って犯行を阻止したのか?
いつの頃からか
「相手は何を持っているかわからないから事件を目撃しても関わらないようにしなさい」
なんて教育や育て方をする時代になってしまいました。
「困っている人がいたら手をさしのべて助けてあげなさい」
とは言っているが、公共の場である列車内で理不尽な強姦事件の被害者となってしまった女性は停車駅が少ない特急列車の車中で困っていただけでなく恐怖に包まれていたはず…。
そして混雑が激しい都市部の路線や新幹線などで設置が急ピッチで進められているホームドア…。
安全であるはずのホームドアが今回の事件では乗客の避難の足枷となってしまったことは何とも皮肉なことです。一部の地下鉄の駅などでは天井から全て線路側と隔てられているホームドアがあり、
(これならホームドアや柵を乗り越えて自殺を図ることもできないからいいものだ)
と思っていても、今回のような事件や地下鉄での車両火災では逆に多くの犠牲者を出しかねないことになります。
事件や事故は万全を期しているつもりでもまだまだ盲点が多くあるということです。
今回の事件は今年8月に同じ東京の小田急電鉄で発生した無差別殺人事件を模倣したとか、大量殺人をして死刑になればいいと供述しているとも報道されていますが、本当に身勝手な犯行に怒りを禁じ得ない方々も多いと思いますし、私もその1人です。
「死刑になる(なれる)」
などと自分の命を粗末に扱う者は他人の命をも踏みにじるものなのです。自殺を考えることも同様。
以前のように新聞やテレビ、ラジオだけでなく多様な手法によるメディアが存在する現代、もちろん「報道の自由」「言論の自由」は保障されて然るべきですが、冒頭に述べた通り検証が始まったばかりの事件についてあたかも鉄道会社や当該乗務員の判断や対応に重大な瑕疵があったかのように結論付ける(あるいは疑問を呈する)ような発言や報道は少なくとも現時点ではすべきではなく、淡々と事実のみを報道するべきではなかったかと思われます。
検証を十分に行わない中での誤報や見解というのはあまりに多いと某国のように「報道の自由」「言論の自由」を抑圧されることにつながりかねない危険性を感じるのです。
「自由には責任と義務が発生する」
ことを報道機関には改めて肝に銘じてほしい。自由と勝手を履き違えるということはとんでもないことであり、それは自分で自分の首を締めることに繋がるわけです。
国民の自由が奪われるようなことだけはしてほしくないものです。
今回の事件で理不尽にもナイフで刺されてしまって意識不明の重体となった被害者の男性の意識とお身体が快復されますよう祈念申し上げます。