白鳥神社を過ぎるといよいよ海野宿の入口となります。
 田中駅からここまで来る間の28分(駅前には18分と書いてありましたが、立ち止まっては風景を撮影したり、踏切で足止めがあったりで、けっこうかかってしまいました)歩いてくる間にすれ違ったのは数台の車とレンタサイクルで田中駅に向かっていった二人の女性だけ…歩行者は私ひとりでした。

 北国街道は前の記事でも述べましたが中山道の脇街道です。
 江戸から浦和~熊谷~高崎~軽井沢と中山道を通り、軽井沢の先の追分で西へ向かう中山道と分かれて浅間山や菅平、志賀高原の山々を迂回しながら北へ向かい、小諸~上田~善光寺~高田を経て日本海側に出て柏崎を通って出雲崎へと至るのが北国街道でした。出雲崎は現代の新潟県三島(さんとう)郡出雲崎町(いずもざきまち)で、当時は佐渡へ向かう出港地であり、北前船の寄港地でした。
 佐渡で採掘された金は主に出雲崎へ船で運ばれ、険しい山岳地帯を抜ける三国街道(長岡~小千谷~小湯沢~苗場~猿ヶ京~沼田~厩橋)より多少遠回りでも宿場町など整備が進んでいた北国街道が主に利用されました。厩橋(うまやばし)は現代の前橋市のことです。

 また、北国諸藩(明治維新後、東京が首都となるまでは平安の時代から天皇御座す京都が首都だったので北国とは現代の新潟県を含む北陸地方を指していました。現代は北日本といえば北海道や東北地方を指しますが、当時の東北地方は陸奥=みちのく、北海道は蝦夷地とされていました)の参勤交代に北国街道は利用されていました。
 現在の国道18号線の長野・新潟県境には大きな信越大橋が架けられてバイパスとなっていますが、長野県側から来て橋の手前のパーキングエリアの手前の道を右折して峠を下ると「道の歴史館」という施設があり、関川関所を復元したコーナーや資料館があり、加賀百万石・前田家の参勤交代の行程表などを見学することができます。

 私がここへ来ることは誰にも告げてはいないのですが、どこから情報が漏洩したものか、どのお店も固く戸を閉ざし、人っ子ひとり歩いていません。

(むむう…おれを乱暴狼藉をはたらく男だとでも誤解しているのか…?)←完全に江戸時代の浪人になりきっている。
 車が通る車道部分は舗装されていますが、水路を挟んだ歩道は土の道です。
 人がいないから撮影しやすいです。
 指定席券売機で空いている列車の最も空いている指定席車両を選択して周囲の席が埋まっていない座席の指定席券を購入、そしてネットであまり密になりそうもないところを選んで徘徊していますが、ここまで見事に人の気配が少なかったのは初めてのことでした。なにせ、歩いているのは本当に私ひとりでしたから…。たまに車が通るくらいでした。
 暖簾は出ているけれど…。ちょっと覗いてみればよかったかもしれません。あまりにも静寂なので逆に気が引けてしまいます。

 海野宿資料館も冬季休館中でした。
 あ、ちなみに前述の「道の歴史館」も毎年春まで冬期休館中ですからご注意くださいね。たしかGW前の4月下旬までだったかと思います。「道の歴史館」は豪雪地帯にありますからね…。
(むむぅ…人ひとりどころか野良犬一匹見かけぬとはな…)←まだやってる…。
(腹が減ってきたのう…)←このあたりで剣客っぽい浪人から貧乏浪人へと変化してきました。
 旧北国街道は現在東御市の市道となっています。
 振り返ってみても誰もいません。
 まるで貸切道路です。まさに風景を独り占めしているようです。
 このあたりまでが昔の風景でした。

 長野県では南信の旧中山道の妻籠塾や馬籠宿が有名ですが、開けた高原地帯にある北国街道の海野宿もなかなか良いところでした。