まだ北陸新幹線が長野駅までしか開業していなかった時の徘徊録です。












この日は深夜勤務明けの休みで長野の親戚宅に行くために東京駅に会社から直行しました。
翌年の春の北陸新幹線長野~金沢間開業を控えて「あさま」に先行導入が始まったJR東日本E7系充当列車をあらかじめ調べておきました。
当時「あさま」で運用されていたのはE2系8両編成でE7系は12両編成、そしてグランクラスを連結しているので時刻表からでもすぐ判別できます。
東京駅のみどりの窓口の指定席券売機で乗車券と特急券を購入するときに12号車のグランクラスを何気なく見てみるとほとんど空席だったもので指が勝手にかつ衝動的に画面をタップ❗

初めてのE7系。まだ新しくてピカピカです。

グランクラスに乗り込みます。

E7系のグランクラスもE5系同様座席数は18席。
1名+2名が6列です。
但し、最高速度が抑えられている設計なのでフロントノーズが短い分11号車寄りにグランクラス専用のトイレなどが設置されています。E5系の10号車グランクラスはトイレなどは9号車のグリーン車と共用だったと思います。

このシート…最大にリクライニングを倒してレッグレストも最大に上げていると睡魔に襲われるほどです。

デッキは北陸・金沢を意識した「和」のイメージを協調、E5系とは一番雰囲気が異なる部分です。

12号車グランクラスと11号車グリーン車の連結部越しにグリーン車側デッキを撮影。

終点の長野まではあっという間でした。

この時の主力はもちろんまだE2系。しかし、急速に置き換えが進んで予想外に早く北陸新幹線からE2系は姿を消してしまいました。もっとも、早くE7系に統一した方が効率的な車両運用が組めますから当然ですね…。
長野駅からは信越本線の普通列車「妙高3号」で黒姫駅まで乗車しました。

乗車したのは両端のクハが183系1500番台で中間車2ユニット4両が189系のN101編成。黒姫にて。
所用を済ませてこのときは一泊だけして帰ったような記憶があります。
翌日の朝にはUターンしました。

帰りは両端のクハが485系の中間車サハ481から先頭車化改造されて189系に編入されたクハ188を連結したN103編成。
この時点で長野総合車両センターに所属していた183・189系は4編成でした。
N101編成は前述の通り両端のクハが183系1500番台で中間のモハユニット4両が189系。
N102編成はすべてオリジナルの189系で統一されている編成。
N103編成は両端のクハがサハ481から先頭車化改造されたクハ188で、中間のモハユニット4両が189系。
N104編成は新潟~松本~幕張~大宮と配置区を流れ歩いた183系1000番台で、両端のクハが1500番台です。この編成は中間の4両が松本時代にグレードアップ改造を施され中央本線の特急「グレードアップあずさ」で使用されていた車両を連結していたため通常は普通列車「妙高」の運用にはほとんど入らずに朝の塩尻からの座席指定制快速「おはようライナー」や中央本線の臨時特急に使われていたようでした。
このうちこの時点ではN101編成とN104編成がオリジナルの国鉄特急色、N102編成とN103編成が信越本線の特急「あさま」がグレードアップ改造を施されてた時に纏い、のちに長野総合車両センター所属の189系と489系全車に施された通称「あさま色」となっていました。

N103編成のクハはサハ481からの改造、側面の行先表示器が客室の側窓の上に移設されています。
国鉄時代末期…巨額の累積赤字を抱えていた国鉄は増収策の一環として料金が安い急行列車を料金が高い特急列車に格上げして特急列車の運転本数を増やしました。
その車両を捻出するためにそれまで11両編成とか12両編成が当たり前だった編成から中間のモハユニットや付随車のサハを抜いて9両編成に短縮、抜かれたモハユニットを集めて組成し、やはり編成から抜かれて余剰となっていたサハ481やサハ489に運転台ブロック取り付け改造を行って先頭車化して新しい編成を作りました。
485系はそれでもよかったのですが、サハという中間付随車そのものが存在しなかった183・189系の足りない先頭車は余剰となっていた485系や489系の付随車からの改造で賄われました。

ちなみに北陸新幹線金沢開業前後には検査期限切れを迎えた編成から廃車・解体され、その後も首都圏の車両基地に配置されていた編成も189系として新製配置された「故郷」の長野に回送されてきて最期の時(=解体)を迎えました。
最後まで残った189系はすべてオリジナルの189系で組成されたN102編成でしたが、こちらも既に廃車されていますが、未だに解体されず長野総合車両センターの解体線で留置されているようです。