緊急事態宣言下における過去の徘徊録を振り返っています。
 今回は2014年7月14日、上野駅から特急「草津」で群馬県の嬬恋村へ行ってきた徘徊録です。

 JR東日本・上野駅。 
 まだ上野東京ライン開業前の上野駅地平ホームにて当時まだ存在していた特急「スーパーひたち」を名乗っていたE657系(画像右)と先代「スーパーひたち」だった651系特急「草津」(画像左)の並び。
 夜ではありません。高架ホームの10番線~12番線が651系が止まっている15番線まで(13番線~15番線)被っているので暗いのです。地平ホームで空が見えるのは16番線と17番線のみ。
 かつての上野駅は欠番無しで1~12番線の高架ホームと13~20番線までを誇る東京最大のターミナル駅でした。19・20番線は東北新幹線の敷設工事が本格化して地下に新幹線の上野駅を設置するため廃止されました(その後新幹線が開業すると19・20番線は新幹線ホームに割り当てられ、現在の上野駅新幹線ホームは19~22番線となっています)。
 新幹線開業後は18番線まで存在しましたが、新幹線への別の連絡通路を設置することと併せて上野駅のリフレッシュ工事が行われて現在の在来線ホームは1~17番線となり、新幹線ホームと続き番号だったホーム番線は18番線が欠番となっています。

 新幹線設置工事が本格化する前の上野駅の発着番線はというと…。

1番線…京浜東北線北行
2番線…山手線内回り
3番線…山手線外回り
4番線…京浜東北線南行
5番線~9番線…東北・高崎・上信越線
10番線…常磐線
11・12番線…常磐線快速電車(上野~取手)
13~20番線…東北・高崎・上信越・常磐線
という感じで割り当てられていたと思います。

 現在の上野駅新幹線改札口を入って深いところにある新幹線ホームへ下りる途中の階にあるコンコースの待合室で列車の時間まで寛いでいると、列車の到着案内がひっきりなしに流れています。東京~大宮間では北海道・東北・秋田・山形・上越・北陸新幹線の列車が線路を共用し、運転間隔は4分
 もちろん始発から最終まですべて4分間隔でやってくるわけではありませんが、多くの列車が4分間隔でやってきます。

 国鉄時代…東北・上越新幹線開業前の上野駅ではすべての時間帯ではありませんが、東北各地や上信越、北陸方面への特急・急行列車では同じような状況でした。まだ航空機は庶民の交通手段ではなく、高速道路も現在のように拡充しておらず、長距離の移動手段は鉄道利用が主体でした。

 国鉄分割民営化が迫った頃、漸く東北・上越新幹線が開業し、昼行優等列車は信越本線や常磐線、群馬県や栃木県への中距離特急を除いてほとんどの列車が廃止され、その賑わいも昔話となりました。

 一部の特急・急行列車を除き高架ホーム発着の列車は朝晩くらいなものとなり、信越本線の特急列車「あさま」「白山」は16番線から、「スーパーひたち」は17番線から、「ひたち」は18番線から出発するというのが北陸新幹線長野開業(長野新幹線)まで続きました。16~18番線は特急専用ホームとなり、ホームに入るところに別に特急列車用の改札口が設けられていました(上野東京ライン開業により常磐線特急列車のほとんどが品川直通となって高架ホーム発着となったため現在は撤去)。
 前述したように18番線は廃止、16・17番線は東北本線や高崎線の快速列車や普通列車が発着するようになり、しかもその多くが上野東京ライン直通となっているので高架ホーム発着なので現在の地平ホームはずいぶん長閑になってしまいました。画像のような並びも定期列車ではほぼ見られなってしまいました。
 上野東京ライン開業で常磐線の毎時ジャスト発の「スーパーひたち」は「ひたち」となり、毎時30分発の「フレッシュひたち」はかつて急行列車で使われていた「ときわ」に変わりました。
 寂しくなるばかりの上野駅在来線ホームの日常風景ですが、東日本大震災で津波や原発事故により10年間も寸断されていた常磐線が復活、すべていわき駅止まりだった「ひたち」のうち3往復の仙台直通が復活、先日の地震で不通となっている東北新幹線の代替手段の重責を早速発揮しています。
 
 特急「草津」はかつて急行列車でした。
 高崎線を進んで上越線の渋川駅から分岐して群馬県西部の長野原駅(現在の長野原草津口駅)や万座・鹿沢口駅を結んでいた165系による急行列車として信越本線の「軽井沢」、上越線の「ゆけむり」、両毛線の「あかぎ」、東北本線の「なすの」と共通運用で新前橋電車区(現在の高崎車両センター)の車両で運転されていました。
 国鉄時代末期に増収策の一環として多くの急行列車が特急列車に格上げされました。「草津」「ゆけむり」「あかぎ」は185系200番台による新特急という特急列車より少し安めの特急料金の列車となり、「ゆけむり」は「谷川」に変更されました(のちに谷川は平仮名となって上越新幹線の越後湯沢止まりの列車名となって「水上」に再度改名されたあげく廃止されました)。
 訪れたのは、吾妻線が八ッ場ダム建設工事に伴う新線付け替えを迎える2ヶ月前…。直前のフィーバーぶりは嫌なので静かにそれまでの路線と別れを告げようとやってきたのでした。岩島駅を過ぎて進行方向左側に分岐して吾妻川を渡る新しい橋梁が現在の路線です。そして並行する国道145号線もバイパスに付け替えられて風光明媚な吾妻渓谷ともどもダム湖に沈んでしまいました。

 話は逸れますが、国の施策によりダムの建設や原子力発電所の建設、核廃棄物の処理施設、空港建設等々、建設計画が持ち上がると地元の人々にすれば大変重い判断を迫られます。先祖代々受け継いできた土地や家屋、墓を失ってしまうし、商売をしていたり田畑を持っていたりと、両手を上げて「賛成」する人は僅かでしょうし、そこて賛否両論に分かれて近所付き合いさえ悪くなってしまう…都会と違って誰が賛成で誰が反対なんて筒抜けです。
 さまざまな嫌がらせや誹謗中傷…住民同士でも例外ではなく、気の遠くなるようなストレスを全住民が抱えて地元議会が断腸の思いで受け入れた施策、しかも既に工事が始まっていたにも関わらず当時政権与党だった民主党の国交相は「公約だから八ッ場ダム建設は中止します」と発言、賛成派・反対派双方の人々の怒りを買う羽目になりました。
 群馬県は自民党が強力な地盤であり、福田赳夫・中曽根康弘・小渕恵三・福田康夫と、4人もの総理大臣を輩出している県。そして小渕元総理の出身は吾妻郡です。あまりにも思慮に欠けたお粗末な公約だったことは言うまでもありません。当時の民主党と前原国交相はすべての群馬県民を敵に回したといっても過言ではなかったのです。次の総選挙で民主党が大敗を被った原因のひとつになったと言っても過言ではないでしょう。
 もともと東日本大震災が未曾有の自然災害発生したという点を差し引いても与党としてスタート直後から内紛、スキャンダル、失態の連続でお世辞にも及第点など与えられなかった「烏合の衆」。
 八ッ場ダムについては地元の群馬県のみならず吾妻川が合流する利根川流域の東京都・埼玉県・千葉県・栃木県・茨城県の水利など広大なエリアに影響を与える大きな問題が長年に渡って議論し、前述したように人間関係の悪化やさまざまな課題によるストレスと死活問題を抱えながら受け入れて住民の移転も始まり工事も本格化し始めたときに「公約ですから中止します」ではあまりにも人の気持ちが読めていないことを露呈したわけです。
 分裂したり合流したりを繰り返して名前も変えていますが、国会質問など見ているとまるで小学校の学級会レベル…。野党議員のみならず与党議員も失態続きで、もっとしっかりできないものか…。この国の行く末が本当に案じられます。

 川原湯温泉駅も移転しました。
 川原湯は歴史的にもかなり古い温泉ですが、隣の長野原駅が長野原町の中心地であり、草津温泉への玄関口だったこともあってか、国鉄時代は急行列車は停車しましたが、当時の特急「白根」は通過していました。

 長野原駅は現在は長野原草津口駅となっており、国道292号線のバイパスを使えば車でも容易に行けるし、駅前から草津温泉へ向かうJRバス関東の路線バスも出ています。

 昔…豊臣秀吉が天下を取ってしばらくした頃に病にかかって体調を崩した前田利家に秀吉は草津で療養を薦めたそうですが、当時の領地であった加賀からも常駐していたであろう大坂からもかなりの距離ですよね…金沢からだと北陸道から北国街道を上田まで来て現代の国道144号線に沿ってきたものか、大坂からだと東山道を下ってきたものか…。
 秀吉とすればやっと授かった子供はまだ赤子、加藤清正や福島正則など縁類の家来はいたけれど子飼いの大名は皆無で、織田信長の家来だった頃は格上だった盟友の利家は心強い存在だったのでしょう。

 終点の万座・鹿沢口駅に到着。
 現在では特急列車はすべて手前の長野原草津口駅で折り返しで、この駅までやってくる特急列車はありません。なお、吾妻線の終点はひとつ先の大前駅です。かつて北へ進路を変えて信越本線の豊野駅まで延伸する計画もあったそうですが、どのような計画だったのでしょうか?
 かつて軽井沢と草津温泉を結ぶ草軽交通という軽便鉄道が実在しましたが、半世紀以上も前に廃止されています。火山や急峻な山岳が立ちはだかる上信国境をどのように通すつもりだったのか興味深いところではあります。
 西へ進んで上田駅に至るというならわかるのですが、北へ進んで草津温泉なのか万座温泉なのか菅平なのか…そして松代か須坂あたりへ出て小布施を抜けて豊野駅に至る計画だったのか?
 しかし、明治の時代に東海道線に先駆けて中山道線が計画されたときにルートから軽井沢を外すことはできないという判断から碓氷峠をアプト式で建設し、現代の北陸新幹線も軽井沢は無視できなかったようで、信越本線の北側を大きく迂回して勾配を最大30‰(それでも新幹線の勾配としてはかなりの急勾配ですが…)に抑えて軽井沢へ至るルートとなっています。

 万座・鹿沢口駅から出て徘徊です。

 万座・鹿沢口駅があるのは嬬恋村。
 嬬恋村といえばキャベツの生産日本一。
 国道144号線は車でよく利用しましたが、あまり道草をした記憶がありません。
 
 駅と国道を隔てた向かい側に見つけた「あさま食堂」でお昼ごはんを食べました。

 そして再び徘徊を始めて視界に入ったのがお蕎麦屋さん。
 お昼ごはんを食べたばかりたというのに足が勝手にお店に入ってしまいました。

 ざるそばを注文するとお店の御主人が
「ウチは中居重兵衛の子孫なんです。いろいろ資料を展示してあるのでよろしかったらお蕎麦ができるまで上がってご覧ください」

(おい足…お前の勝手な行動も役に立つことがあるではないか❗)
と、御主人のお言葉に甘えて見学させていただくことにしました。
 中居重兵衛は幕末に活躍した豪商。
 いろいろと書き述べたいところですが、いまの時点でかなり長文の記事となってしまったので割愛します。二回に分けるべきだったかな…。

 群馬県も多くの才人を輩出しており、江戸時代末期の幕臣・小栗上野介はもっと歴史で取り上げられて然るべき人物だと思います。
 幕臣であった故に明治維新によって罪人扱いを受けて故郷の権田村(高崎市倉渕町権田)に幽閉されて非業の死を遂げるのですが、実は明治新政府が採った政策にはもともと小栗上野介が幕府に上申した施策が多かったといいます。
 しかし、新政府の原動力となった薩長連合にすれば賊軍である幕府の役人で罪人に仕立て上げた小栗上野介の発案ということにするわけにはいかなかったようで…。
 幕末から明治維新の激動期…最後まで抵抗を続けた新撰組でただひとり生き残ることを得た永倉新八のような人物もいる…剣客は生き延び、新時代を見据えた政策を提言した本来なら新政府に引き抜かれるべき才人は罰せられる…時の情勢とはいえ皮肉なものです。

 
 お蕎麦屋さんの屋号も「重兵衛」。


 中居重兵衛の碑も万座・鹿沢口駅前からすぐのところの国道沿いに建立されています。
 この人物…開港した横浜に生糸を送り巨額の富を得たり、学者でもあり、火薬の研究にも長けていたというほどの秀才でありながら、あまりにも派手にやり過ぎたものか、幕府から睨まれて没落してしまうことに…。


 帰りも特急「草津」で…。


 グリーン車の車内。
 651系は国鉄分割民営化以後、JRグループ初の新型特急車両として常磐線の特急「スーパーひたち」としてデビュー、後継のE657系がデビューに置き換えられて高崎線系統の特急列車を185系から置き換えるために交流機器をカットする改造を受けて実質直流電車となりながらも交直両用の651系のままで番台のみ1000番台に変更されてオレンジ帯が追加されて基本番台と区別されています。
 グリーン車は当時国鉄型特急電車のグレードアップ改造施工車などでも流行った(?)2列+1列のゆったりした3列構成。最近の新型車両は再び2列+2列の4列構成に回帰していることや国鉄型車両のグレードアップ改造車の廃車もあって少数派となってしまいました。


 普通車の車内。
 万座・鹿沢口駅を発車したときには乗客は私を含めて数名しかおらず、多くの乗客は長野原草津口駅や中之条駅からの乗車でした。

 上野駅に到着。
 折り返しは全席指定の特急「スワローあかぎ」となります。