今日は昭和の日


昭和の印象的な出来事は?

▼本日限定!ブログスタンプ

あなたもスタンプをGETしよう


 昭和38年生まれの私にとって、4月29日というと今でも「天皇誕生日」と答えそうになります。

 戦後の高度経済成長期に生まれた私はもちろん戦前や戦時中、そして戦後の混乱期についてはリアルタイムで体験したわけではありません。
 一番印象的だったのは昭和が終わった日…昭和天皇崩御のニュースが速報で流れたときだったかもしれません。「ひとつの時代」が終わったことを実感したのがあの日でした。
 

 昭和3年生まれの上毛電気鉄道デハ101形。
 
 電車や電気機関車はパンタグラフと架線が擦れて発生する鉄粉かわ付着して汚れが目立つことや塗料の材質などの理由茶色というのが一般的でした。
 機関車が牽引する客車も同じで、鉄道車両は全体的に暗い色というのが当たり前でした。明るい色というのは東海道本線の特急「つばめ」「はと」が機関車と客車ともどもライトグリーンを施された特別な存在だったのではないでしょうか…。

 そんな常識を打ち破ったのが国鉄80系電車。
 80系電車は電化区間の拡大によりそれまで通勤型電車くらいにしか採用されなかった電車を中長距離列車に初めて本格的に導入された形式でした。
 黄柑色と濃緑色のツートンカラーという当時としては斬新的なカラーは警戒色の意味が込められているという話を聞いたことがありますが、東京から東海道本線を下る普通列車や準急列車に導入されたことから沿線のみかん畑の風景も相まって80系電車は「湘南電車」と親しまれ、この車両が纏ったツートンカラーはその後の国鉄直流型電車のうち急行型と近郊型の車両の標準色として継承され、ファンの間では「湘南色」と呼ばれることになります。
 
 80系電車に始まる「湘南色」は全国の直流区間を走る急行列車や普通列車で当たり前に見られましたが、国鉄分割民営化により平成の時代には各地の地域色に塗り替えられることが多くなりました。
 しかし、長野県の第三セクター「しなの鉄道」ではオリジナルの湘南色を復活させた編成も走っています。

 東海道本線の湘南色に対して横須賀線では70系電車にクリーム色と青色のツートンカラーが施され、こちらは横須賀線の電車ということから「スカ色」と親しまれました。こちらは急行型には採用されることはありませんでしたが、横須賀線や房総地区を走る113系や中央東線の115系に採用され、中央東線の115系は山岳地帯を走ることから「山スカ色」と呼ばれました。しなの鉄道の115系にはこちらも復刻された編成が存在します。
 この「スカ色」は国鉄時代、地方のローカル線に転用された旧型国電にも多く施されました。

 この伝統の「湘南色」「スカ色」は現在でも首都圏の近郊路線に色合いは少し異なりますが継承されています。
 
 こちらは交直両用電車の標準色となったクリーム色と小豆色の急行型455系電車。
 鉄道博物館で展示されていますが、室内は近郊型に改造された後のものとなっています。
 交直両用電車や交流用電車は急行型電車は直流型電車と同様に側面もツートンカラーとなっていますが、近郊型では全面のみクリーム色が入り、側面は小豆色一色となっています(60HZ専用の形式では細いクリーム帯が入れられています)。

 新幹線がまだ東海道・山陽新幹線しかなかった頃に少年時代を過ごした私にとっての憧れは全国を走り回っていた在来線特急列車でした。
 山陽新幹線の博多開業時までの山陽本線特急列車黄金時代を広島県で過ごし、東京に引っ越してからは上野駅黄金時代を目の当たりにしてきたわけですから…。

 鉄道博物館で展示されている181系。
 初めて特急列車に採用された151系特急型電車、これを山岳路線バージョンとして上越線の特急列車に導入された161系を出力増強させたもので、国鉄特急型電車の始祖ともいえます。
 このボンネットスタイルは後に登場する485系にも継承されます。
 先頭部のJNRエンブレム・運転台フロントガラスのセンターピラー・赤とクリームの塗り分け、画像では分かりにくいですがボンネット先端に取り付けられている特急シンボルマークの角度がすべて揃えられて平行を描いているデザインには今なお美しさを感じます。


 国鉄特急型電車は後に登場する581系寝台電車設計時に計画されていた「行先の異なるふたつの列車を併結させて運転」するために高運転台はそのままに先頭部をボンネットから貫通型としたスタイルに変更し、さらに貫通型をベースにスライド式の貫通扉をなくした非貫通型へと発展しますが、基本的な構造は変わりませんでした。
 碓氷鉄道文化むらで展示されている189系。
 181系の後継として房総地区にデビューした183系は貫通型でしたが、これに耐寒耐雪装備を強化して新潟運転所に配置された183系1000番台をベースに信越本線碓氷峠での急勾配をEF63型電気機関車と協調運転できる189系が開発されました。
 181系では機関車と協調運転できないために最大8両編成までしか組めず、信越本線の輸送力を強化させるために協調運転装備を施した169系急行型電車の成功を基に489系特急型電車、そして189系特急型電車が開発されて長編成を組成できるようになり、こちらは長野運転所に集中配備されました。
 189系はベースである183系1000番台同様の非貫通スタイル、489系はベースである485系のモデルチェンジ期に製造されたので少数派ながらもボンネット型・貫通型・非貫通型すべてのスタイルが存在しました。

  ちなみに189系は183系1000番台がベースと述べましたが、当時の国鉄の計画は軽井沢をはじめ沿線に行楽地と小諸や上田といった都市を多く抱えていた信越本線の輸送力改善は喫緊の課題として189系の方が先に導入される予定だったそうです。
 しかし、雪に弱く、老朽化も進んでいた181系が上越線の豪雪によりダウンして運休が相次いだことが新潟県出身である田中角栄首相の逆鱗に触れてしまい、183系

 新潟県内の快速「くびき野」は485系特急型電車が使用されていました。
 国鉄特急型電車で一番ポピュラーだったこの形式も一般型車両は近年消滅し、ジョイフルドレインに改造されたものがわずかに残るのみです。


 「Discover Japan」に始まる国鉄のキャンペーンはとくに女性による旅行ブームを巻き起こし、やがて「いい日旅立ち」キャンペーンでは山口百恵さんが歌うCMソングの大ヒットや特急列車のイラストマークが東海道新幹線開業を境に黒字から赤字に転落したり労使闘争など暗いニュースが多かった国鉄にとって久々に明るい出来事だったかもしれません。

 少年時代を地方で過ごした私にとって切符は窓口で買うものでした。
 行先を言ってからの駅員さんが数ある切符を引き抜いて日付を印字する機械に通して乗客に出す作業の速さといったら神業的でした。

 住んでいた福山市に山陽新幹線の福山駅が完成間近となったとき担任の教師がまるで我が事のように「福山駅では自動券売機で切符を買うことになる」のだと誇らしげに力説していたことが思い出されます。それをさも凄いことのように真面目に聞いていた私がその後まもなく東京に引っ越してきたときのカルチャーショックをご想像ください。私鉄の小さな駅でさえ切符は券売機で買うものだったのですから…。

 鉄道博物館で再現されている改札口。
 少年の頃、自動改札機があったのは関西の阪急電鉄と関東の東京急行電鉄(現在の東急電鉄)の一部の駅くらいなものだったと思います。
 改札掛の駅員さんの鋏のリズミカルな音と動きも神業的でしたが、キセル乗車を見抜く眼力も凄かった(キセル乗車して改札口を通り抜けようとした会社員風のおじさんの腕をグイと掴んで離さないことを何度も見かけたことがあります)。


 しかし、国鉄の巨額の赤字は膨らむ一方で、自動車の普及と高速道路網の拡充、航空機利用が庶民に広がったこともありますが、政治的な力で敷設された地方ローカル線の存在や北海道や九州において相次いだ炭鉱の閉鎖なども影響しました。
 国民の生活レベルが上がり、所得も増えたために人件費が上昇、安い輸入品が増大して高い国産品が売れなくなるという皮肉な結果が国鉄にも影響したともいえます。

 そして国鉄が分割民営化された2年後に昭和の時代も終わりを告げました。