<世界遺産>ウィーン歴史地区 の観光。
最初にヨーロッパ旅行をしたときも ウィーンに来ました。それ以来です。
昨日まで訪れた 中欧の都市は わりとこじんまりとした可愛らしい街でしたが、それに比べると やはりウィーンは華やいだ感じです。
まずは シェーンブルン宮殿 から。初日の夜、クリスマスマーケットに来ました。
ハプスブルク家の夏の離宮
1696年レオポルト1世の治世に建設が始まり18世紀マリア・テレジアの時代に完成しました。部屋数1441室。
伝説では17世紀初頭、皇帝マティアスが狩猟を行っている時に清水溢れる泉を発見。
これが“シェーナー・ブルネン”(美しい泉)という名で呼ばれる由縁なのだとか。
1814年 「会議は踊る」 で知られるウィーン会議が開かれました。
マリアテレジアイエロー の宮殿
昼間から すでにあちこちの屋台が開いています。
ウィーン市内を観光します。
生涯多くのウィンナ・ワルツを作曲し「ワルツ王」と呼ばれます。
代表曲「美しく青きドナウ」「ウィーンの森の物語」オペレッタ「こうもり」
ウィーン大学の設計も手掛けた建築家フェルステルによるネオ・ゴシック様式。
1853年皇帝フランツ・ヨーゼフが、アナキストのリベニーの陰謀から難を逃れたことに対する神への感謝として建築されました。
ウィーン大学の設計も手掛けた建築家フェルステルによるネオ・ゴシック様式。
ギリシャ建築を学んだテオフィル・フォン・ハンセンの代表作(1883年)。
民主主義発祥の地であるギリシアの古典様式が国会議事堂に相応しいとして採用されました。
英知を司るアテナ女神の足元に当時のハプスブルクの領土を流れていたドナウ、イン、エルベ、ブルタヴァ川を象徴した像が置かれています。
昼食レストラン
ピアリステンケラー
1698年皇帝レオポルド1世により創始されたピアリステン修道会の僧院を改装して創業されました。
300年以上の歴史を誇り、かつてハイドンやモーツァルト等有名音楽家たちもこの僧院で演奏したといいます。
色とりどりの帽子コレクション
<モーツァルトメニュー>
飲食証明を頂きました。
ピアリスト修道会の教会。1796年12月26日、「戦時ミサ」が初演されました。
午後は自由行動。
かねてから 希望していた ベルヴェデーレ宮殿へ。トラムで向かいます。
トルコ軍からウィーンを救った英雄プリンツ・オイゲン公(1663~1736)の夏の離宮。
1716年に離宮として下宮を、1723年に宴会用として上宮を建設しました。
ベルヴェデーレ とは “美しい眺め” という意味です。
クリムトの代表作 『接吻』 ほかが展示されています。
ウィーンの 素晴らしいところは、ハプスブルク帝国の歴史と ウィーン世紀末の文化の双方に触れることができるところだと思います。
ここでも クリスマスマーケットが開催されていました。
再び トラムに乗って、ウィーン市庁舎へと向かいます。
ここの 市庁舎前のクリスマスマーケットは この旅行のハイライトのひとつ
トラムを降りると 市庁舎向い側に ブルク劇場が。
ドイツ語圏最高峰の劇場。1888年に完成したネオ・バロック様式。
大階段天井にクリムトの『タオルミナの劇場』『ディオニソスの祭壇』があります。
ウィーン市庁舎前のクリスマスマーケット
ウィーン市庁舎前のクリスマスマーケット
なんとも 華やか
市庁舎窓が アドベントカレンダーになっています。
添乗員さんの お話では マーケットのお客さんを狙って “商売” する悪者がいるとか。
ノー天気な日本人観光客の被害者は後を絶たないようで、パスポートを盗まれた被害者のために 日本大使館は 休日返上で対応しているそう。
気を付けないと
いろいろなお土産がもらえるクーポンを頂いていたので楽しませて貰っていたのですが、突然雨が降って来て、マーケット内を巡る汽車ぽっぽに乗れませんでした。
最後の観光。
レジデンツコンサートへ。
ウィーンらしい音楽の演奏と、バレエを堪能しました。
“音楽の都” ウィーンらしい催しで旅を締めくくりました。
ウィーンもまだまだ見どころはいっぱい。
今度は フリーステイの滞在型で来たいなぁ
でも オーストリア自体、素敵な観光先は沢山あります。
チロル地方 のインスブルック、メルク修道院、ハルシュタット
あと ハンガリーの パンノンハルマのベネディクト修道院
いつ 行けるかしら
ウィーン会議
フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として、
1814年9月1日から外相メッテルニヒ主宰のもと開催されました。
1792年より以前の状態に戻す正統主義を原則としましたが、各国の利害が衝突して数ヶ月を経過しても遅々として進行せず、「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されました。
1815年3月にナポレオンがエルバ島を脱出したとの報せが入ると、危機感を抱いた各国の間で妥協が成立し、
1815年6月9日にウィーン議定書が締結されました。
ウィーン会議の結果成立したヨーロッパにおける国際秩序をウィーン体制と呼びます。
プリンツ・オイゲン(1663-1736)
サヴォイア家の血を引くフランス生まれの貴族。
サヴォイア公の男系子孫にあたることから、公子(プリンツ)の称号をもって呼ばれます。
長男ではないため伯爵を継げなかったので、軍人となる道を選び
1683年オーストリアに渡ってハプスブルク家のレオポルト1世に仕え、オーストリア軍の将校となりました。生涯出身国フランスとの戦いに費やすこととなります。
グスタフ・クリムト(1862-1918)
ボヘミア出身の彫版師を父に持ち、 1876年博物館付属工芸学校に入学。
石膏像やデッサンや模写など古典主義的な教育を受けました。
卒業後 弟エルンスト、友人フランツ・マッチェと芸術家商会を設立。
1894年ウィーン大学講堂の天井画制作を依頼され、『学部の絵』(哲学・医学・法学)を描くが大論争となります。
1897年保守的なウィーン美術家組合を嫌った芸術家達によって「ウィーン分離派」が結成(初代会長)。 1902年分離派によるベートーヴェン展に大作『ベートーヴェン・フリーズ』を出品したが反感を買ってしまいます。
1905年クリムトとその同士は分離派を脱退し、翌年オーストリア芸術家連盟を結成しました。
1918年 ウィーンで脳梗塞と肺炎により死去。ヒーツィンガー墓地に埋葬。
エロス&タナトスと「ファム・ファタル」をテーマにした絵画を数多く描きました。
『接吻』に代表される「黄金の時代」は金箔が多用され、ジャポニスム(特に琳派)の影響が顕著です。
晩年はこれら装飾的な作風から脱却していきました。
世紀末的な官能美が画面から迸る 『接吻』
オーストリア政府観光局
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