愛知県の病院で
赤血球と血小板を輸血するようになった。

赤血球の輸血では
鉄過剰症と言って
鉄を過剰に体内に取り込むことにより
肝障害や心不全などの臓器障害を
引き起こす危険性もある。

血小板の輸血には一回8万円かかる。
それを週に二回。
高額医療の対象ではあるが
自己負担の金額はかなり大きい。

この病気はお金もかかる。

闘病で働けない人には本当に過酷だ。
自分が死ねばお金がかからない、
と考えて鬱になる可能性は誰にでもある。


輸血の副作用によって、腕に斑点ができた。

毎回行う採血で
腕は穴だらけだった。

輸血した先から
ザルのように血液内の成分が失われて行く。

職場のある奈良県と、病院のある愛知県との往復の日々だった。

それでも、仕事は辞めなかった。


2011年7月、職場で意識を失くして倒れ、救急車で運ばれた。


妻は新薬をやって欲しい、移植をやって欲しい、
と、泣いた。

T自身、前向きな治療なくして仕事を続けることの限界を実感した。


新薬のアザシチジン投与を決めた。

新薬なので、データが少なく、投与のペースも探り探りだった。


この薬は
そのままでは急降下する病気の進行を、
緩やかな降下にするのが目的だ。


一週間点滴で投与し、三週間休薬する。

これを、6クール行う。

入院の退屈が紛れるようにと、
三人の娘たちがiPad を買ってくれた。
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Tは、子育てが終わったことを実感した。


4クールあたりから、これまでは自分で作れていなかった赤血球や血小板の数値に
明らかな変化が見られた。

一ヶ月ほど輸血をしなくていい日々が続いた。

このまま薬が効いていれば復帰できる。

希望が見えた。

職場の仲間に、1月に復帰したい旨を伝えた。

仲間たちは、Tの復帰をずっと待ち望んでいた。


2011年11月、愛知県の病院から
大阪森ノ宮にある成人病センターに移った。

成人病センターは
移植の成績は全国トップクラスだが、
Tはリスクの高い移植をするつもりはなかった。

ここなら通院しながら働ける。
Tは、働ければそれでよかった。


骨髄穿刺、別名マルクといって
骨髄を太い針で穿刺して骨髄液(骨髄血)を吸引する検査がある。

物凄く痛いのでやりたくないが
マルクをやらないと造血組織の検査ができない。

Tは、注射が大嫌いだったが
採血も、点滴も、輸血も、マルクも文句を言わず耐えた。

全ては復帰のために。


12月、体調が安定しているので
三人の娘たちと長女の夫が伊豆旅行をプレゼントしてくれた。

みんなで陶芸をした。
この旅行で何かを遺したい。
そう思って長女が企画した。

家族は四苦八苦しながら作っていたが
もともと手先が器用なTは誰より早く完成させた。

三浦半島沖をボートで一周して
富士山を見た。
大好きな温泉にも入れた。
数値が悪ければ、温泉など言語道断だ。


愛犬のアモネも泊まれる豪華旅館で、妻とTの還暦祝いもしてもらった。

旅館のサービスで、鯛の尾頭付きと
赤い帽子とちゃんちゃんこを着せてもらった。

妻は嫌がったが、Tは嬉しかった。

照れ屋のTが
嬉しいことを、素直に嬉しがることができるようになったのは
病気になってからではないだろうか。
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いい旅館だった。

病気が良くなったら、また来ようと
Tは思った。
2010年の年末から、心臓がドキドキいうようになった。

いつも妻より先にせっかちに歩いていたTが、
妻の歩く速さに付いて行けなくなった。

いい歳なので、そんなこともあるだろうと考えていた。

心臓のクリニックに行くと、血液内科に行ってくださいと言われた。

何かがおかしい
と、思い始めた。


2011年、三女が通う大学の最後の学費を払い終えた次の日

病名が宣告された。


骨髄異形成症候群(こつずいいけいせいしょうこうぐん)。

別名MDS。


骨髄異形成症候群とは
簡単に言えば、自分で血液を造れなくなる病気だ。

白血球、赤血球、血小板を造る造血幹細胞に異常を来し
形も性能もいびつな細胞しかできなくなる。

日本人患者はおよそ9000人(2008年調べ)。
一年間に、10万人に2.7人が発症する。

こんな数字だが、難病指定はされていない。
この病気が重症化すると、急性骨髄性白血病に移行することが多い。


原因は不明。
生活習慣でも遺伝でもない。

ある日突然、遺伝子のてっぺんがとんでしまうらしい。

ただ、運が悪かった。

それしかわからない。


症候群なので、人により症状は様々だ。

軽い人は、ほとんど治療せずに普通に生活することもできる。

血液を作れないということは

赤血球減少→
貧血→全身倦怠(けんたい)感、動悸(どうき)、息切れ

血小板減少→
出血しやすい(鼻血、歯肉出血、紫斑(しはん)や点状出血、生理の量が増加)

白血球減少→
感染しやすくなる(発熱など)

こういった症状が現れる。

Tの場合も、自覚症状は貧血だけだった。


完治を望める治療方法は
造血幹細胞移植
つまり
骨髄移植、或いは臍帯血(赤ちゃんのへその緒にある造血幹細胞)移植のみ。

骨髄異形成症候群という病気は、
血液を作る機械が壊れてしまっている病気なので
新しい機械を入れないと治らないのだ。

2011年4月から認可されたアザシチジンという薬があるが
これは進行を遅らせる効果しかない。

貧血を起こさせないために赤血球輸血、
内臓出血、脳内出血を起こさせないために血小板輸血を行うが

他の治療を行わず、輸血のみの場合
余命は1年3ヶ月
5年生存率は30%と宣告された。


Tは、太く濃く生きてやろうと思った。

移植も薬もやらない。
入院して病人になりたくない。
どうせ死ぬなら、働きながら死ぬのが本望だ。


妻は泣いた。

気持ちの弱い人だから心配だった。

でも、自分の死に方は自分で決めたかった。


2011年3月、東日本大震災が起こったが
Tの家族は連日のニュースもうわの空で
ただただ途方に暮れていた。

ある日突然津波に流されてしまうのと
確実に近づいてくる死と向き合うのと

どちらが酷なのだろう。

2011年5月、東京に住む長女が結婚した。

長女には勿体無いくらい、
できた相手だったので安心した。

こんなにわがままで我の強い娘をもらってしまった義理の息子を
本気で心配した。


ヴァージンロードを歩くのが早い
と、怒られた。

久しぶりに長女と手を繋いだ。

温かかった。
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血液としての機能はなくても
Tの血は流れている。

温かいということが
生きているということだ。

こんな当たり前のことが
私たちにとっては貴重で大切なことになった。
昭和25年8月7日。

山口県下関市の鉛工場。

三人兄妹の長男として彼は産まれた。

彼の名はTと言う。

関門海峡の向こうに北九州を臨む港町で、少年Tは2人の妹と共に成長した。

猫にトラという名前をつけ、犬にクマという名前をつけた。

イタズラが大好きだった。

クマに自分のウンチを食べさせたり
妹に自分のオシッコを飲ませたりした。
階段を下りる幼い妹の前に突然現れて驚かせたりもした。

やんちゃな一面もありながら、
兄妹は男1人だったために部屋で一人プラモデルに没頭したりもした。

父親とはうまく関係を作れなかった。

文字通り吊るされたこともある。
日本刀を振りかざす父から、母を守ろうとしたこともある。

父親は、家族に与えるべき愛情を与えられない人だった。


Tが中学生の頃
父親の横暴に耐えきれず、母親は出て行った。

高校生に成長するころ、Tはひとり殻に閉じこもり、寡黙になっていた。

父親との関係は更に悪化し、Tは家を出ることを決めた。


名古屋の大学で学生運動に傾倒していった。

社会への反発は、やり場のない父への反発だったのか。

まともに生きていける気がしなかった。


ちょうどその頃、1人の女性と出会い、すぐに結婚を決めた。

自分の生き方を受け止めてくれる人だった。


Tは、妻となる人のために、まともに生きていくことを決意した。

理学療法士の勉強をし、結婚した。

実家の鉛工場は、障がい者を雇っていた。
「理学療法士という仕事を選んだのは、その人達への償いの気持ちもある」
一度だけ、Tは妻にポツリとそんなことを言った。


東大阪に家を構え、2人の娘が産まれた。
目に入れても痛くないと思った。
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工場が立ち並ぶ東大阪の空気は汚れていて
娘たちのために奈良に移った。


カッとなると自制が利かなくなった。

父親の愛情を知らずに育ったTは
娘たちとどう接していいかわからなかった。

そんなTの不器用さが
幼い娘たちに伝わるはずがなかった。


長女が8歳の頃、三女が産まれた。

妊娠中は男の子と言われていたが、産まれてみれば女の子だった。

自分に三人も育てられるのか。

Tは不安だった。

朝から晩までがむしゃらに働いた。
単身赴任をしたこともあった。

仕事は楽しかった。

生来の頑固さが時には災いし、上とぶつかることもしばしばあった。

T先生にリハビリしてもらったひとは
必ず自転車が乗れるくらい回復する。

そんな風に言ってもらえるようになった。


休日の趣味もできた。

雨の日も台風の日も、吉野川へ出掛けては、カヌーに明け暮れた。
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相変わらず、子どもたちとはうまく関係を作れなかった。

川に娘たちを連れて行ったりもするが
叱るときやイライラしたとき
力で押さえつけること以外、父親としての接し方を知らなかった。

娘たちが思春期を過ぎた頃には、
Tとはあまり話さなくなった。

順調に大学まで進んだ長女が
ある日突然、よくわからない、チャラチャラした不安定な仕事に就きたいと言い出した。

Tは、地味で平凡でいいから
着実に、誠実に人生を歩んで欲しかった。


そんなこともうまく言葉で表現できず
力でねじ伏せようと大げんかになった。

次の日長女はアパートを決めてきた。

長女に引越しの手伝いをすると申し出たが
痛々しい傷痕に
引越し中もなんと声をかけていいか分からなかった。

引越しが終わったエレベーターの中で
用意していたお金を渡した。

悪かったな。

と、Tは言えなかった。


長女はヘアメイクの仕事に就き
離れて暮らすようになって、会話が増えた。

次女は看護師になった。

おっとりしていて優しい娘だが
気が弱いので厳しい職場でやっていけるか心配だった。

アトピーによる肌荒れも心配だった。

三女が大学を卒業するのは還暦だったが
その後もまだまだ働くつもりだった。

妻も
死ぬまで働いてね。
と冗談で言っていた。

それでよかった。


最近はカヌーより自転車で遊ぶことが多かった。
嵐山も行った。
伊良湖も一周した。


この頃のTは臨床を離れ
理学療法士を育成する専門学校で教鞭を取ったり
実習先とのパイプをつなぐ仕事をしていた。

やっと、自分の力を発揮出来る職場に恵まれ、
やりがいを持って仕事した。



全ては順調に思えた。