2013年 1月14日 月曜日
父が亡くなりました。
62歳でした。
2011年3月に骨髄異形成症候群の宣告
2012年12月に急性骨髄性白血病に移行 余命宣告
2013年1月8日に退院し、僅か一週間でした。
骨髄異形成症候群は、自分で血液を造れなくなる病気で
10万人に3人ほどしかいない、特定疾患です。
発症した時点での5年生存率は30%でした。
アウトドアやスポーツが好きで、病気知らずの父が
まさかこんな病気になるなど、誰も想像していませんでした。
長生きするものと勝手に思い込んでいた分、
並んで歩く老夫婦を見かけるだけで、
泣けて来るほど辛かったです。
いつも父のことを心配し、泣いてくれる友人がいた一方で
安易な慰めで傷つくこともたくさんありました。
親や兄弟、夫といった、
本当に近い人を喪った経験を持つ人と、
そうでない順風満帆な人との温度差はものすごいです。
父がこうなって初めて、自分がこれまで、
如何に適当な言葉をかけてきたかを痛感しました。
それは綺麗で神妙な言葉で飾っただけの、
相手を傷つけるだけの軽い言葉でした。
よく「大変やね」という言葉をかけられますが
本当の「大変」を経験したら、そんな言葉は簡単に出て来ないのだと知りました。
「お子さんも結婚して、初孫にまで会えて、まだよかったですよね」
なんて言って来る人もいますが
だったらあなたは子育て終わってて、孫の顔見れたら、死んでもいいんですか
と聞きたくなります。
そういうことは、遺族が一生懸命自分を納得させるために
自分に言い聞かせる言葉なのではないでしょうか。
そんなおざなりな言葉、
対岸の火事を眺める人に
善かれと思って言ってもらわなくて
全然結構です。
私たちはこういう温度差に本当に辟易していたので
父の病気のことを打ち明けることに、常に慎重でした。
二年前から、難病は他人事ではなくなりました。
10万人に3人のこの病気にはかからなくても
何万人に数人の難病はたくさんあります。
自分や、自分の大切な人が、
そのうちの一つを発症したっておかしくないとは思いませんか。
。。。なんて、思わないでしょうね。
大多数の人は経験しないことなので、
そういうもんなんだと思います。
この二年間で、私の価値観は変わりました。
全ては一期一会。
一生懸命、生きる。
この二年間、父は常に死と隣り合わせの日々でしたが、
私たち娘に弱音を吐くことは
最後までありませんでした。
幼い頃から、父との確執はそれはもうすごかったですが
この二年間、きちんと父と正面から向き合うことができました。
父のことを、心底尊敬しています。
これまで、このブログに父の病気のことを書かなかったのは
父がこのブログのファンだったからです。
「今日のブログ読んだ?」と
とよく母に聞いては、楽しみにしてくれてました。
このブログを読んでいる時間だけは、病気のことを忘れてもらいたい。
そう思って書いてきました。
ずっと私が気になっていたのは、
骨髄異形成症候群という病気の情報量の少なさです。
どんな病気なのか
明るい未来はあるのか
治療中はどんな様子なのか
自分でネットでも調べましたが
見つかるサイトは、専門家向けの難しい言葉が並ぶものか
結末の書かれていない、途中で終わってしまった闘病記ばかりでした。
父は亡くなりましたが、
この二年間はあらゆる手を尽くして病気と闘いました。
そこには喜びも葛藤も哀しみも
生きていることの想いがたくさん詰まっていました。
この病気と闘おうとしている
或いは今まさに闘っている人たちに
一つの情報源として、何かを提供できればと思い、
闘病記を書いています。
私自身が医療の素人であり、
また、私たち家族のように突然骨髄異形成症候群を宣告され、
右往左往されている方にもわかるよう
難解な医療用語を
ウィキペディアやがんセンターのサイトで調べ
なるべくわかりやすい言葉で表現するよう努めました。
語弊、誤謬はどうぞ寛恕ください。
具体的な数値などはほとんど記録していません。
質問いただければ、わかる範囲でお応えいたします。
近いうちに、少しずつアップしていきます。
父を知る人たちに、
どんな風に死んでいったのか知っておいて欲しい。
そして、
この残酷な病気と向き合う方達の
一助となれば幸いです。
父が亡くなりました。
62歳でした。
2011年3月に骨髄異形成症候群の宣告
2012年12月に急性骨髄性白血病に移行 余命宣告
2013年1月8日に退院し、僅か一週間でした。
骨髄異形成症候群は、自分で血液を造れなくなる病気で
10万人に3人ほどしかいない、特定疾患です。
発症した時点での5年生存率は30%でした。
アウトドアやスポーツが好きで、病気知らずの父が
まさかこんな病気になるなど、誰も想像していませんでした。
長生きするものと勝手に思い込んでいた分、
並んで歩く老夫婦を見かけるだけで、
泣けて来るほど辛かったです。
いつも父のことを心配し、泣いてくれる友人がいた一方で
安易な慰めで傷つくこともたくさんありました。
親や兄弟、夫といった、
本当に近い人を喪った経験を持つ人と、
そうでない順風満帆な人との温度差はものすごいです。
父がこうなって初めて、自分がこれまで、
如何に適当な言葉をかけてきたかを痛感しました。
それは綺麗で神妙な言葉で飾っただけの、
相手を傷つけるだけの軽い言葉でした。
よく「大変やね」という言葉をかけられますが
本当の「大変」を経験したら、そんな言葉は簡単に出て来ないのだと知りました。
「お子さんも結婚して、初孫にまで会えて、まだよかったですよね」
なんて言って来る人もいますが
だったらあなたは子育て終わってて、孫の顔見れたら、死んでもいいんですか
と聞きたくなります。
そういうことは、遺族が一生懸命自分を納得させるために
自分に言い聞かせる言葉なのではないでしょうか。
そんなおざなりな言葉、
対岸の火事を眺める人に
善かれと思って言ってもらわなくて
全然結構です。
私たちはこういう温度差に本当に辟易していたので
父の病気のことを打ち明けることに、常に慎重でした。
二年前から、難病は他人事ではなくなりました。
10万人に3人のこの病気にはかからなくても
何万人に数人の難病はたくさんあります。
自分や、自分の大切な人が、
そのうちの一つを発症したっておかしくないとは思いませんか。
。。。なんて、思わないでしょうね。
大多数の人は経験しないことなので、
そういうもんなんだと思います。
この二年間で、私の価値観は変わりました。
全ては一期一会。
一生懸命、生きる。
この二年間、父は常に死と隣り合わせの日々でしたが、
私たち娘に弱音を吐くことは
最後までありませんでした。
幼い頃から、父との確執はそれはもうすごかったですが
この二年間、きちんと父と正面から向き合うことができました。
父のことを、心底尊敬しています。
これまで、このブログに父の病気のことを書かなかったのは
父がこのブログのファンだったからです。
「今日のブログ読んだ?」と
とよく母に聞いては、楽しみにしてくれてました。
このブログを読んでいる時間だけは、病気のことを忘れてもらいたい。
そう思って書いてきました。
ずっと私が気になっていたのは、
骨髄異形成症候群という病気の情報量の少なさです。
どんな病気なのか
明るい未来はあるのか
治療中はどんな様子なのか
自分でネットでも調べましたが
見つかるサイトは、専門家向けの難しい言葉が並ぶものか
結末の書かれていない、途中で終わってしまった闘病記ばかりでした。
父は亡くなりましたが、
この二年間はあらゆる手を尽くして病気と闘いました。
そこには喜びも葛藤も哀しみも
生きていることの想いがたくさん詰まっていました。
この病気と闘おうとしている
或いは今まさに闘っている人たちに
一つの情報源として、何かを提供できればと思い、
闘病記を書いています。
私自身が医療の素人であり、
また、私たち家族のように突然骨髄異形成症候群を宣告され、
右往左往されている方にもわかるよう
難解な医療用語を
ウィキペディアやがんセンターのサイトで調べ
なるべくわかりやすい言葉で表現するよう努めました。
語弊、誤謬はどうぞ寛恕ください。
具体的な数値などはほとんど記録していません。
質問いただければ、わかる範囲でお応えいたします。
近いうちに、少しずつアップしていきます。
父を知る人たちに、
どんな風に死んでいったのか知っておいて欲しい。
そして、
この残酷な病気と向き合う方達の
一助となれば幸いです。







